紅の憧憬もしくは彷徨える暁
(一) 登 城 2




 浩瀚が瘍医の許可を得て、臥牀に起きあがることを許されると、陽子は遠甫と柴望と共にやってきて牀榻の側に椅子を用意した。桓堆は浩瀚の看病と見張りの為に既にそこにいた。
「傷を診た時もそうだったが、傷の治りの早さにも瘍医が呆れていた。軍人並みに鍛えられた身体だと言っていた。温厚篤実な麦州侯は精神的にも肉体的にもかなり頑丈らしいな」
浩瀚はくつくつと笑いながら頭を垂れた。
「恐れ入ります」
「褒めてなどいない!貴方はみかけによらず無茶な男だったんだな」
「恐れながら言わせて頂きますが、主上がそれを仰るのですか?主上とわたしとでは立場が異なります。わたしの死はわたしに縁がある者だけにしか意味を持ちませんが、主上の死は国に苦痛をもたらす、ということはご存知だったはずです」
陽子はぷいと横を向いた。
「今回のことはお互い他に手はなかったということにしておいてくれ。今は相談できる相手がいるのだから、わたしもそう簡単に無茶はしないし、貴方もこれから持つ特権を存分に振るえばいい。そうすれば今回のような無茶はしなくても済むのだろう?」
「心しておきます」
陽子は浩瀚の言葉に頷いた。
「具合はどうだろう?起きていて大丈夫か?」
「主上のお陰でかなりよくなっております。碧双珠の効き目は主上もご存知かと」
「そうか、ならば時間がないので単刀直入に言うが、靖共を失って朝廷はかなり浮ついている。靖共派の連中はわかるが、反靖共派も内部分裂を起こしているらしい。これはどういうことだろう?彼等には嘉熙(かき※)の後をまとめられる者はいないのだろうか」
「反靖共派は元々靖共派に対立していた者達が集まってできた派閥です。求心力を失えば己が利益が優先するのは当然のことでしょう」
「嘉熙が一人でまとめていたのか?」
「ええ、おそらくは主上の為に。意見の合わない者達とある程度の妥協をしていたはずです。己が利益を優先していてはできなかったでしょう」
「どうして、そこまで・・・」
陽子は碧の瞳を見開いた。
「嘉熙は己が命を惜しんで予王を見限った経緯がございます。そのため予王は金波宮では完全に孤立し、狂気の中でお亡くなりになったのです。さしもの嘉熙も二度と同じ事は繰り返したくはなかったのでしょう。命を落とすかもしれないことは覚悟の上でなければできないことでした。それに、それは予王への贖罪の為でもあったのですから、主上がお気に病まれることはございません」
「わたしは慶の朝廷に女王の為に命を賭けてくれている者がいることなど考えてもみなかった」
「どんな中にも人はおります。それさえお心に留めて頂ければ、必ずや主上の御為に動く者が出て参ります。嘉熙は靖共に対立することが主上を守ることだと固執し過ぎていたようですね。もっとも、手を組んだ者達の手前そうせざるを得なかったとも言えますが、やはりそんな連中の為に命を賭けてまでやることではなかったと、わたしは思います」
「それでも、わたしは嘉熙に生きていてほしかったし、ありがとう、と言いたかった」
陽子は項垂れて腿に両手を置き、袍を掴んだ。遠甫はそんな陽子の肩に手を置いた。
「陽子がこれからそんな人間の思いを気付いてやればよい。それでこそ嘉熙も命を賭けた甲斐があるというものじゃ。それに、浩瀚達には間に合ったじゃろう?陽子が気付いたからこそ、浩瀚もこうして生きて陽子の前におる」
「わたしは嘉熙や浩瀚達の期待に応えられるだろうか?」
「少なくとも、わたしの期待には応えておられますよ」
陽子は顔を上げて、浩瀚を見つめた。浩瀚は僅かに眼を細め、口元に笑みを浮かべた。
「見も知らぬ国の為に親政軍の先頭にお立ちになられ、和州の圧政を平定し、桓堆や柴望の命を救って頂いた。わたしにはそれだけで十分です。後はそのお心のままに玉座に君臨し続けて頂ければ慶はゆっくりと、そして確実に繁栄するでしょう。それに、靖共派のような奸臣の言いなりにならない王となることこそ、嘉熙の期待に応えることになります」
「そんなことでいいのか?大体、和州の件はあなた方の努力の結果でもあった。もっと、慶を豊かにしてくれとか、わたしに王らしくして欲しいとか言わないのか?」
「どんなに若かろうが、どう振る舞おうが、主上は紛れもなくこの国の王です。そして、この国を豊かにするということは我々官吏の仕事でもあるのです。主上お一人でやってほしいとは申せません。それよりも、主上がこの国に期待することはないのですか?」
「それは初勅で言うよ」
「楽しみにしております」
陽子は頷くと、身を乗り出した。






「実は、浩瀚と桓堆に相談もあるんだ。虎嘯、拓峰の乱を率いていた男なんだが、彼を禁軍に入れることはできないだろうか?」
「主上の勅命を持ってすればできないことはございませんが、わたしはその男の為人を存じませんのでお答え出来ません。ここは桓堆にお訊きになった方がよろしいでしょう」
「どうだろう?」
陽子は傍らに立つ桓堆を見上げた。
「彼は腕っ節も人並み以上にあって気持ちのいい漢です。拓峰の件でもわかるように人望も統率力もあります。そんな男を一兵卒から始めさせるのは惜しいですし、あの男も朝廷の組織に馴れるまでは何かと窮屈かと思われます。ですから、主上の大僕からというのはどうでしょう?主上さえお許しになれば、主上の信が厚い者として多少の不作法も許されます。それに、主上もその方がよろしいのではないですか?」
「それは嬉しいけど、虎嘯を大僕のままにしておくのは惜しいのではないか?」
「ええ、ですが大僕として確固たる信用を得られれば、後に禁軍の旅帥や師帥に抜擢しても誰も文句は言わないはずです。大僕は天官の管轄、後は浩瀚殿にお任せしましょう」
陽子は浩瀚を振り返った。
「虎嘯に会ってから決めるか?」
「いいえ、桓堆がそこまで言うならば虎嘯を大僕として取り上げる心づもりをしておきましょう。貴人の護衛や兵士を見る目はわたしよりも桓堆の方が上なのです。桓堆に言わせれば、わたしは兵士としては癖がありすぎて使い物にならないそうですよ」
陽子は碧の瞳を見開いた。
「貴方が兵士?」
遠甫は声を上げて笑うと長い髭を撫でた。
「確かに浩瀚は軍人向きではないの」
「浩瀚殿はそんなことを根に持っておられたのですか?言われるまで忘れておりましたが、わたしは確か、あの時には護身用の腕としては最高だと褒めたつもりですよ」
「そうだったのか?」
浩瀚のこの言葉で桓堆が陽子に向かって肩を竦めると、陽子は声を上げて笑った。


 陽子が主だった官吏を招集した日、浩瀚達が皆よりも先だって正堂(ひろま)にいた。浩瀚を知る者は目を見開いて一瞬立ち止まり、視線を背けるか、胸を撫で下ろしていた。そして、見知らぬ顔に首をかしげる者は浩瀚の名を聞いて温厚篤実には見えない風貌に目を見開いてから頷いていた。
 彼等の主、陽子が登場すると正堂は水を打ったように静まり返った。陽子は皆に向かって直接、王としては破天荒な行為だが、金波宮を空けていた無沙汰を詫び、靖共等の処分を告げた。正堂内は浮き足だったが、陽子が秋官達に示した脅しで沈黙した。それから陽子は禁軍将軍の移動を告げ、騒然となった官等を無視して桓堆を禁軍左将軍に、浩瀚を冢宰に、柴望を和州侯に任じ、新しい太師の遠甫を紹介した。
 そして、陽子はついに赤王朝の初勅を布告した。
 曰く、礼典、祭典、および諸々の定めある儀式、他国からの賓客に対する場合をのぞき、伏礼を廃し、跪礼、立礼のみとする、と・・・。
 浩瀚はこの言葉に口元で笑った。
 前代未聞の初勅に台輔は常世の常識で反論したが、陽子は自分が慶国を導く先を説明すると、殆どの官達がそれに聞き入っていた。
「この初勅は海客や半獣にも適用されると覚えていてもらおう」
陽子のこの言葉に正堂内は多少ざわついたものの、陽子が説明した慶を導く先にあるものとして皆は一応納得した。
「本日をもって海客と半獣に関する規制は撤廃する。それに伴い、現在法に定めてある全ての規制箇所は法の改正を待たずに無効とする。これからの慶は海客と半獣も他の民と同等に扱うよう心がけよ!これは勅命である」
官達が揃って拱手をすると陽子は力強く頷いた。
「さて、今度の禁軍左将軍は半獣だが、以前の法を無視した元麦州侯浩瀚には冤罪で追放した謝罪としてこれを許した。民達に先んじた諸官等の対応を期待している」
陽子はそう言い置くと、騒然となった官等を無視して、正堂を去った。また、不満のある官達も正面切ってそれを口に出せない為、粛々と正堂を後にした。
 全員が退出すると桓堆は大きく息を吐いた。遠甫は陽子や台輔とともに退出していた。
「為王軍に囲まれた時よりも緊張しましたよ」
「主上の為にも堂々としていることだ。それに、そのことが他の半獣達の希望にもなる」
「わかってますよ」
桓堆はそう言って軽く両手を上げた。
「浩瀚殿、貴方は主上の初勅が気に入ったようですね」
柴望の言葉に浩瀚は笑みを浮かべた。
「相変わらず、目敏いな。海客と半獣に関する法的な差別は殆どの国で撤廃されているが、心情的な差別は残っている。主上の初勅はそれすら撤廃せよと仰せだ。慶が諸国に先んじることがあるなどとは楽しいとは思わないか?今の子供達が成人する頃には懐達という言葉は消えているだろうな」
「その為にも主上を何としてでもお守りしましょう。我々にはどうすればいいかが解っています。麦州でのことはいい予行演習でしたね」
桓堆の言葉に柴望は口の端を僅かに上げた。
「浩瀚殿にこき使われた甲斐があったな」
「全くです」
桓堆が頷くと三人はくつくつと笑った。そして正堂を出ると、そこには紀州侯と征州侯が待っていた。
「生きている貴兄とこうして金波宮で再び逢えるとは嬉しい限りだ。麦州侯いや、冢宰殿。心よりの慶賀を申し上げる」
紀州侯がそう言うと二人は拱手した。
「お二方には心配をおかけした。こちらこそお詫び申し上げる」
「いやいや、貴兄の今回の行為は諸州のためでもあったのだから、感謝しなければならないのはやはり我々の方だろう」
紀州侯の言葉に征州侯も頷いた。
「それにしても貴兄を冢宰に据えるとは、主上も思い切ったことをなさる。朝廷は荒れるだろうが、我々も出来る限りの協力は惜しみませんぞ。のう、和州侯殿?」
「ええ、朝廷よりも先に州内を平定して落ち着くとしますか」
征州侯の言葉に柴望がそう返すと、二人は「おお」と同意した。
 そうして、柴望は紀州侯や征州侯と共に路門へ、桓堆は夏官府へ、浩瀚は冢宰府へと、それぞれが役割を果たす場所に向かって歩き出した。






 冢宰となった浩瀚の問題は山積みだったが、浩瀚は陽子に求められれば時間を割いて政務について説明することを惜しまなかった。そして、慶の長年の悪癖である女王を蔑ろにする風潮を払拭するために、自ら率先して陽子に対して王に対する最大限の礼をとることを心がけ、陽子に対する忠告は他の官吏達のいない場所で直接本人に告げていた。結果、他の官吏達も六官の長である浩瀚に追従することになった。無論、陰ではそれを揶揄る声がしきりに囁かれていたが、浩瀚はそれら全てを無視していた。
「十六の女王にそこまでする必要はないぞ。陰でなんと言われているのかは知っているのだろう?」
大卓に両手を組んで上目遣いで言う陽子に浩瀚は笑みを浮かべた。
「主上に王らしく振舞っていただくためにはまず、周囲が王として対することが必要なのです。反せば、それがわたしの主上に対する期待だと思し召し下さい」
「厳しいな」
言って、陽子は溜息をついたが、声は明るかった。
「それから、慶で一番忙しい人間が何も知らない者の為に時間を割く必要はないと思うのだが」
「いいえ、主上のために割く時間を惜しいと思ってはおりません。主上が政務についてご理解を深められれば、それは後々の慶の為となり、主上の御為ともなります。そして、何よりわたしが楽になる最善の手段でもあるのです」
「わかった、浩瀚の努力を無駄にしないように努力することにしよう」
陽子は力なく笑って、浩瀚が携えてきた書面に目を通した。

 朝議を終えたある日のこと、浩瀚が冢宰府へ向かう回廊で見知った顔が前からやってきた。彼は浩瀚に礼をとると前後を見渡し、誰もいないことを確認して浩瀚の腕を取り、太く大きな柱の影に引き込んだ。そして、浩瀚の胸ぐらを取って柱に押しつけ、睨めつけた。
「貴様、よくも命の恩人を死ぬほど忙しい府第(やくしょ)に移してくれたな!冢宰になるとわかっていたら復廷しろと説得なんぞしなかったよ」
「老師に告げ口をしてくれた礼だ」
「老師に言うなとは聞かなかったぞ」
友人の言葉に浩瀚はくつくつと笑った。
「そこでお前の能力を存分に発揮してくれ。お前ならばそこから秋官長まで上ってこられるだろう?」
「ほう、大層な評価を下してくれたものだな。では俺が秋官長になった暁には、お前に無理難題を押しつけてやるから覚悟しておけ!」
浩瀚の眼の前に人差し指を突きつけ、彼は立ち去った。

※嘉熙(かき):靖共の前の大宰。靖共との混同を避ける為、アニメの名称を使いました。

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2004.

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