紅の憧憬もしくは彷徨える暁
(二) 登 城 1




 浩瀚は指定された刻限に禁門へ降りた。御門を守る門卒(もんばん)は心得て何も聞かずに騎獣を預かり、浩瀚を通すと中では女官等が頭を下げて出迎えた。たが、その脇にに控えていた昏人(こんじん※当て字)は不満も露わに一行を見送っていた。景王自らこの時間に来報する者を一切の質問もせず通すように、との命を下していた為だったが、昏人は己の前を無言で通る者が許せなかった。
 この門は王専用の金波宮への入り口だった。女官達に先導されて通る回廊で見知った顔に出会わなかった。今は主立った官は朝議に出ており、この刻限を指定した景王も列席しているはずだった。
 女官等に案内された堂室には浩瀚のよく知る乙老師と柴望、桓堆、それに燃えるような赤毛の官服を着た少女がいた。浩瀚は一瞬目を見開いたが、彼女が何者であるか判断できたので膝をつき、叩頭した。
「主上、この度は登城の許可を頂き、恐悦に存じます。その上、このような過分なご配慮を賜り、感謝の言葉もございません」
久しぶりに、殊勝な官吏ぶりで浩瀚が挨拶した。
「こちらの方こそ、不当な処遇を与えたにも拘わらず登城してくれたことを感謝している。こちらの流儀に反することかも知れないけど、立ち上がってくれないだろうか?」
普通は王と相対するものではないが、浩瀚は陽子の望み通り立ち上がった。陽子は浩瀚に近づき、眼を真っ直ぐに見つめてから、膝と手をついて頭を下げた。浩瀚は眼を見開いて一歩後ずさった。
「靖共の言葉を鵜呑みにして、本人の弁明も聞かず罷免してしまって申し訳なかった。しかも、最後まで偽王軍に抵抗してくれた功も正当に諮らなかった不明を許して欲しい」
浩瀚は再び膝をついた。
「主上こそ、頭をお下げになる必要はございません。麦州侯の任を解いて頂いたお陰で主上のお役に立てたのですから」
顔を上げて浩瀚の眼を覗いた陽子は不思議そうに首を傾げた。
「私を恨んではいないのか?」
「老師や柴望達からわたしのことをお聞きにならなかったのですか?」
柴望は浩瀚に向かって頷いた。陽子は碧の瞳を浩瀚に真っ直ぐに向けていた。
「貴方の心配をするだけ無駄だと言われた。だけどっ!」
浩瀚は片手を陽子に差し出し、立ち上がるように促した。
「恨むも何も、今回のことは主上のせいではありません。責任を問うとするならば、それは王不在の間に朝廷を我が者とし、私利私欲を貪っていた者共と、それを止められなかった官吏全員なのです。あまつさえ、彼等は予王を孤独に追い込み、乱心させました。彼等は主上にも同じ手段を使おうとしていたのです。そんな彼等以上に憎むべき相手がいるのでしょうか?」
「予王を追い込む?そんな話は聞いていない!」
「慇懃無礼に扱われ、王を補佐するべき職責を果たさぬ事を棚に上げられて、暗に無能なのだと態度に表されていたらどうでしょう?それをものともしなかったとしても、官が動かなかったら、いかに王とはいえ何も出来ません。慶国の朝廷はそれを逆手に取ることに長けて・・・」
浩瀚は目の前の少女の瞳から零れる透明な雫に目を奪われ、言葉を失った。陽子は沈黙した浩瀚に気付くと、微かに肩を竦ませ、無造作に袖で涙を拭った。
「うん、予王の気持ちはわたしが一番理解できる。でも、それをわかってくれる人間がいたなんて嬉しい。貴方は王だからそれをなんとかしろなんて言わないんだね。ありがとう」
浩瀚は目を見開いてから微かに笑って溜息をついた。
「礼を言われるほどのことではありません。こちらのことを殆どご存知ない主上にいきなり慶の問題をすべて解決して欲しいと望めないことなど誰にでもわかることです。そんな時間のかかる問題よりも、災害を収め、追放された女達を引き戻すことのほうが切実な問題なのです。そして、予王の最大の不幸はこの国で生まれ育ち、多くの者達に深い愛情があったことです」
「普通はいいことだよね?」
「格好の脅迫材料になります」
陽子は眉根を寄せて俯き、両手を硬く握り締めた。
「酷い話だ。貴方はわたしが予王よりもまだ恵まれていると言うんだね?」
「心許せる者がいないこということは、主上にとってお辛いことかも知れませんが・・・」
陽子は首を横に振った。
「それはこれから作ればいいことだ。それに、わたしには景麒がいる」
「御立派な心構えです。この国は主上が愛着を持てるような何物をもご用意できなく、心苦しくありますが、どうかこの国の為に君臨され続けることをお願い申し上げます」
浩瀚は立ったままで、深く頭(こうべ)を垂れて拱手をすると、陽子は微笑んだ。
「景麒や大宰が貴方に会えば、謀反を起こすような人間か、どうかわかると言っていたけど、その通りだね。こちらこそよろしく頼む」
言って陽子は右手を差し出した。浩瀚は不思議そうにその右手を見ていた。
「ああ、こちらではこういう挨拶はなかったんだね。蓬莱では利き手を相手に預けて敵意がないことを示す友情のための挨拶だよ」
陽子の説明に浩瀚も微笑み、両手を差し出した。
「わたしは両手を使います」
頷いて陽子は喜んでその両手を握った。
「蓬莱では左手を使える人は頭がいいと言われているんだよ」
「恐れ入ります」
「でも、変わった人も多いんだけどね」
浩瀚の手を握ったまま上目遣いで陽子が言うと桓堆が吹き出した。振り向くと老師や柴望も肩を震わせて笑っていた。
「主上、浩瀚様に限って言えば、どちらもあっていますよ!」
桓堆の言葉に遠甫と柴望は頷き、浩瀚は口元を歪めた
「さあ、隣の堂室へ行って座りながら話そう!」
そう言うと陽子は浩瀚の手を解放し、華奢な体を翻して隣の堂室へ続く扉へ向かった。浩瀚は僅かの間、自分の両手を見つめて微かに笑うと、陽子の後を追った。
 浩瀚は戸口に立つ老師の前で拱手をした。
「お久しぶりです。老師。大変なお怪我をされたと聞いています。お起きになっていてもよろしいのですか?」
「陽子のおかげでの。ほれ、この通り。前よりも調子がいいくらいじゃ!」
遠甫は飛び跳ねて見せ、ほっほっほっ、と笑った。





「ところで、主上は朝議はどうなさったのですか?」
隣の堂室へ移動し、椅子に座って浩瀚が訊くと、陽子は「ああ」と言って笑った。
「靖共達の逮捕の件では勅命で片づけなければならないことが多い。本人達の了解を取らなければならないこともあるしね。官達の追求が煩いからこうして正寝に立て籠もっている。あなた方の処遇は決めているけど、景麒が来るまで待って欲しい」
浩瀚は口元に笑みを浮かべた。
「官の追及をかわす方法は松伯直伝ですか?」
陽子は頬杖をつき、声を上げて笑った。
「やはり、わかるのか。さすが遠甫の弟子だね。同じ事を柴望にも言われたよ」
陽子は卓子の上でその細い指を組むと、浩瀚を真っ直ぐに見つめた。
「ここにいる者達は皆、貴方が堯天にいた理由を知りたがっている。そして、後で和州へ向かうと言い置いたまま、和州へ来なかったことも」
遠甫や柴望、桓堆も浩瀚に剣呑な視線を据えていた。
「皆はどう思っていたのでしょう」
「貴方が堯天にいたのは靖共の関心を和州から逸らす為の囮だったのではないかと言っている。しかし、和州へ来れなかった理由まではわからない」
浩瀚は溜息をついた。
「囮というのは合っています」
浩瀚の言葉に柴望は首を横に振り、桓堆は頭を抱え、遠甫は髭を撫でながら頷いた。
「よく、衛士に見つからなかったな」
「朱旌の真似をしておりましたので」
陽子と他の三人は一様に目を見開いた。
「それだって、朱旌がどういうものかわかっていなければ成り切れるものじゃないだろうに・・・」
陽子は前髪を掻き上げて言った。
「わたしは官吏になる前に五年ほど旅をしていました。その事実を知るものはここにいる三人の他にはおりません」
「なるほどね。では、金波宮の内情はどこから?」
「御史に大学時代の友人で情報を集めることが得意な者がいるのです」
「貴方の大学の同期で御史のまま?」
「靖共の申し出を断ったと言っていましたね。位階が低いお陰で多くの情報が集まって便利だと笑っておりましたが」
「どこまでわかった?」
「主上が雁には行かず、慶国内にいるだろうという処まで」
陽子は目を輝かせた。
「それはすごい!靖共の申し出を断ってくれていて助かった」
「郷城にわしの見舞いに来た男じゃよ」
「え?じゃあ、浩瀚から預かったというあの書類を持ってきた?金波宮にいたのか・・・」
「わたしが姿を眩ましていたせいで老師に手が回ってしまい、ご迷惑をおかけしました」
「いやいや、それでよかったのじゃ。でなければ仙籍を外されたお前さんの命はなかったじゃろう。蘭玉には気の毒なことをしたがな。殺される寸前で助けられたと聞いたぞ」
「浩瀚殿!」
柴望の悲鳴に近い叫び声と老師の言葉に浩瀚は頭を抱えた。
「あいつは老師に話したのですか・・・」
老師はそんな浩瀚を厳しい顔で見た。
「柴望や桓堆には言うなということだったから黙っておったが、涼しい顔をしておっても、今でも相当苦しいはずじゃて。人の心配をする前に自分の心配をすることじゃな」
「なぜそれを早く言わない!」
陽子は卓子を叩いて立ち上がると、剣から宝珠を外し、浩瀚の側に寄って、浩瀚に宝珠を押しつけた。浩瀚は掌の上の碧い玉を目の前に掲げて見つめた。
「これが慶国宝重の碧双珠・・・」
陽子は浩瀚の反応に片眉を上げ、背中を叩いた。浩瀚は呻き声を上げて宝珠を持った手で胸を押さえ、卓子に突っ伏した。
「苦しい時は苦しそうな顔をしろ!」
陽子は浩瀚を見下ろして言いつけると元いた席に戻った。
「浩瀚殿、その怪我は如何されたのです?」
柴望は冷たい声で言った。浩瀚は宝珠を硬く握り締め、胸に押し当てながら、ゆらりと顔を上げた。そこへ景麒が扉を開けて姿を現した。浩瀚達は一斉に立ち上がった。





「叩頭はしなくていい!公式な場じゃないんだ。かまわないだろう?景麒」
陽子は叫んだ後、景麒を睨め付けた。
「それはかまいませんが・・・」
景麒は言葉を途切らせると、一同を見渡した。叩頭を禁止された彼等が拱手をすると景麒は口元で笑った。
「ここにいる者達は主上の非常識に合わせられるようですね」
「何だ、それは」
陽子は僅かに頬を膨らませて、景麒を睨め付けた。そんな陽子の視線をものともせずに、景麒は陽子の側へ向かったが、浩瀚の前で足を止め、浩瀚を見つめた。
「貴方は人をお斬りになるのか?」
景麒の言葉に浩瀚は一瞬眼を見開いたが、すぐに元の表情に戻った。
「台輔にはご不快かも知れませんが、他人にやらせるより確実な場合は自分で手を下します。わたしは人に言われているほど慈悲深い人間ではないのです。失望なさいましたか?」
景麒は首を横に振り、溜息をついた。
「まったく、女王も冢宰も自ら剣を振うのはこの慶国くらいでしょう」
景麒の言葉に浩瀚だけではなく、柴望、桓堆も景麒の言葉に耳を止め、陽子を振り返った。そして、景麒もまた不振そうに陽子を振り返った。陽子は景麒に向かって上目使いで笑った。
「ああ、すまない。お前を待ってまだ何も言っていない」
「何もそんなに勿体ぶらずともよいではないですか」
景麒は呆れて言うと、陽子の側に向かって、隣の椅子に座った。陽子は他の者達にも手で座れと命じた。
「州侯と冢宰は同位だ。別に可笑しくはないだろう?」
陽子の言葉に浩瀚は首を横に振った。
「乱を起こした、という事実をお忘れです。こちらを先に罰して頂かなくてはどのような官位もお受けできません」
陽子は目の前で両手の指を組んで、浩瀚を見つめた。
「乱の件は偽王軍に最後まで抵抗していた功績と相殺する、でどうだ?それに、貴方はこれを栄転だと思うのか?」
浩瀚は陽子の真摯な視線を受けて、口元だけで笑った。
「朝廷に疎まれていたわたしが冢宰になるということがどういうことなのかを承知の上で、という訳ですね。失礼ながら、わたしが冢宰を拝命した場合は、それを栄転と妬んでどんな噂が流れるかも承知しておられますか?」
陽子は組んだ手に顔を乗せてくつくつと笑った。
「貴方が色仕掛けで官位を得たとか、今度の女王は臣下に恋着しているとか、そういうことか?そんな噂を気にしていたらこの先のどんな改革も出来ない。靖共が失脚した今となっては靖共以上に朝廷をまとめられるのは、その朝廷に長年抵抗し続けた貴方しかいないと思う。かつては貴方を追い落とそうとしていた者達の中に放り込むのだから、命が危険だということも承知している。おまけに王であるわたしはこちらのことが何もわからない、文字も書けないという有様だからね。それに耐えられないと言うのであれば、無理強いはしない」
「そこまで聞かされて、引き受ける者があるとお思いですか?」
「貴方なら引き受けてくれると遠甫が仰っていた」
浩瀚が遠甫を振り返ると、遠甫は長い髭を撫でながら笑っていた。
「今までのお前さんの物騒な噂に比べれば色気があっていいのではないかな?」
浩瀚は溜息を一つ突いた。
「桓堆も付けてやるよ」
浩瀚は首をかしげ、陽子は桓堆を振り返った。
「桓堆には禁軍左将軍を引き受けてもらいたい」
「わたしが半獣だということをどうなさるおつもりですか?」
「勿論、半獣と海客に関する規制は撤廃する。本当はもっと早く実現させたかったんだが、他に至急解決しなければならない問題があると難癖をつけられていたんだ。いい機会だから利用させて欲しい」
「浩瀚殿の法令無視が露見しますよ」
「それは冤罪で追放してしまった謝罪で不問に付す、ということではどうだ?」
陽子は浩瀚に向かって口元で笑った。
「ご厚情を感謝致します。しかし、現在の禁軍左将軍をどうするのです?」
「まず、瑛州軍の三将軍には引退してもらう。瑛州侯や王の命令を聞けない将軍はいらないからな。そして、禁軍の三将軍を瑛州軍に移動する。禁軍は王の私兵、将軍は自分の背中を預けられる者でなくてはならない、違うか?」
陽子の剛い碧の視線を受けて浩瀚と柴望は頷いた。
「桓堆は朝廷に抵抗していた麦州城の者達の安全を守っていたと聞いた。その手腕を今度はこの金波宮で振るって欲しい」
「ありがたくて涙が出そうですよ。主上はわたしにまだ浩瀚殿の無茶に付き合えというわけですね?」
「そういうことになるのか、浩瀚?」
浩瀚は口を歪めて笑った。
「桓堆が王宮を護るというのであれば命の危険はかなり減りますが、柴望も付けるとは仰られないのですね?」
「うん、柴望は当初朝廷とは変わらなかった麦州城の綱紀を正したと聞く。柴望には和州侯として、和州を本来あるべき姿に戻して欲しい。交通の要所である和州の安定は慶の繁栄に繋がる。浩瀚も桓堆もいない状態で大変だと思うけど、引き受けてくれるだろうか?」
柴望は首を横に振った。
「朝廷からの刺客がない分、余計な心配は減ります。この国をよくご存知ではいらっしゃらない主上が国の為に腐心しているのです。そのお心に報いる為にも和州を慶国一豊かな州となるよう努力致しましょう」
そう言って柴望は立ち上がり、陽子に向かって拱手した。
「そう言ってくれて嬉しい。楽しみにしている」
陽子は次に浩瀚を振り返った。浩瀚も笑みを浮かべて立ち上がり、拱手をした。
「謹んで冢宰を拝命致します」
桓堆も続いて立ち上がり、拱手をした。
「禁軍左将軍を拝命させて頂きます」
陽子は三人を見上げてから、頭を垂れた。
「大変なことを引き受けてくれてありがとう。これからのことを、よろしく頼む」
陽子が顔を上げると、立ったままの浩瀚が再び拱手した。
「こちらこそ、我が主上のご期待に添うよう努力致しましょう」
「我が主上の御為に」
浩瀚に倣って、柴望、桓堆もそう言って再び拱手した。
陽子が目元を染めて「ありがとう」と言うと景麒が陽子の耳元に何事かを囁いた。陽子は眉根をよせて頷いた。
「一刻の猶予もないということだな」
陽子は立ち上がった。
「桓堆、浩瀚を支えてやれ」
桓堆は短い返事をすると浩瀚の背後に廻った。浩瀚は陽子が近づいてくると立ち上がろうとした。
「そのまま座っていろ。景麒は生きている人間で貴方ほど血の匂いを漂わせた者に会ったことがないそうだ」
陽子は浩瀚を見据えると浩瀚の額に手をかざし、人差し指を額に当てた。
「慶東国王景の名に於いて元麦州侯浩瀚に慶国冢宰を命ず」
陽子の弾指で浩瀚は目を見開いた。体中の傷や折れたあばらが一斉に悲鳴を上げ、目の前が霞んだ。沈みかけた体を支える者があり、浩瀚が身を捩って呻くとその手が外された。そして、次には体が浮いた。
「景麒、瘍医を呼んできてくれ!桓堆、浩瀚を奥の堂室にある牀榻へ運べ!」
「え、ここは主上の私室では?」
「重傷者相手に場所を選ぶな!」
陽子の叫び声に浩瀚は桓堆の服を力なく掴んで微かに首を振った。
「主上の命令なので、恨まないで下さいよ」
桓堆のどこか明るい声を聞きながら、浩瀚の意識は深い闇に沈んでいった。それは不思議と心地よかった。

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2003.

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