紅の憧憬もしくは彷徨える暁
(一) 攻 防 3




 地下牢へ降りる階段から足音が聞こえると浩瀚は膝を抱え、突っ伏した。現れたのは薬を運ぶ狼と、靖共が付いてきていた。
「相当苦しそうだな。」
「最悪だよ。さっさっさと薬を置いて消えてくれ」
「まだだ。意識のあるお前に伝えておきたいことがある」
靖共は勝ち誇った笑みを浮かべて言った。
「気違いの戯言など聞く気はない」
浩瀚は壁に背中を預けて肩で息をした。靖共は後ろに控えている杖身から槍を受け取ると柄で浩瀚を打ち据え、力を込めて胸を突いた。浩瀚は苦痛に顔を歪め、血を吐いた。首垂れている浩瀚を見て靖共は満足して口の端で笑った。
「お前はまだ自分の立場がわかっていないらしいな。ここではお前の意思など無意味なのだ」
靖共は浩瀚に近づき、髪を掴んで顔を上げさせた。浩瀚は虚に靖共を見ていた。
「よく聞け。お前の仲間はもう終いだ。今朝拓峰に禁軍を出した。州軍と二つの軍を相手に勝てる見込はあるまい?証拠の在りかを言えば生き残った仲間の命だけは助けてやらんでもないぞ」
「断ると言ったら?」
「そ奴等の眼をえぐり、手足を杭で打ち付け、死なぬ程度に槍で突き、命果てるまで和州の民に石つぶてを投げさせるというのではどうだ?」
「和州では驚かれない光景だな」
「言う気になったか?」
浩瀚は体を痙攣させ、前のめりに突っ伏せて呻いた。そして小声で何事かを呟いた。
「何と言ったのだ?」
靖共が浩瀚の口元に耳を寄せようとした時、「よせ!」と狼は叫んだが、浩瀚は手を戒められたままで腕を靖共の首に回した。
「首の骨を折られても仙は生きていられると思うか?」
「莫迦か?お前、そんな体で素手で仙を殺せるとでも思っているのか?」
狼はせせら笑った。
「では試してみよう」
浩瀚は体が上げる悲鳴を無視して靖共の首を締めた。靖共は呻きながら狼を罵った。
「よせ、わかった。何が望みだ?」
「まず、靖共にこの手枷の鍵を渡せ」
狼は靖共に鍵を渡した。
「さて大宰殿、この枷を外してもらおうか」
靖共は首を戒められた不自然な姿勢のままで手枷の鍵を外した。
「足は外さなくていいのか?」
靖共が言った。
「それはまだいい。次はわたしの剣を持って来てもらおう」
浩瀚は狼を見て言った。狼は傍にいる者に顎で命じた。狼は運ばれてきた剣を持ち上げ、にやにや笑った。
「どうやって取りに来るつもりだ?」
「それも靖共に渡せ」
狼は鼻を鳴らして剣を靖共に渡した。剣を受け取った靖共は口元に笑みを浮かべ、剣を抜いて浩瀚に斬りかかろうとしたが、思うように扱えなかった。
「それはお前には使えない」
浩瀚は靖共から剣を取り返して言った。靖共は浩瀚が今まで自分が送った刺客から悉く逃れた事実を思い出した。大学を出た官吏の剣の腕などたかが知れていると侮っていたが、ここまで重い剣を造作もなく振り回すからにはその腕は相当なものだと思い知った。浩瀚が自分を突き飛ばし、剣を振り被ると靖共は悲鳴を上げた。狼は舌打ちして靖共の腕を引いた。しかし、浩瀚の獲物は靖共ではなかった。浩瀚は自分の足を戒めていた鎖を断ち切り、狼と靖共に向かって笑った。
「お前まさか、その体で俺を倒してここを出ていくつもりか?」
「そいつを人質にするより確実だろう?」
狼は声を上げて笑った。
「言っておくが、俺も仙だぞ」
「それも元軍人、だな?出身は戴国あたり、民を見捨てて逃げてきたのか?」
「あの国へ行けばお前だって変わるさ。裏切りと絶望しかないんだからな。お前が信用している仲間がその大宰と手を組んだらどうだ?」
「莫迦な。有り得ない」
浩瀚は柴望と桓堆を思い浮かべて笑った。
「その信じられないことが起こる国なんだよ。今の戴はな!」
「何があっても人を殺す理由に正当性はない。だから、大人しく殺されるつもりもない」
「明快だな!」
狼はそう叫びながら斬り掛かってきた。浩瀚はその剣を受けるのが精一杯で、反撃することが出来なかった。狼の剣を受けるたび、あばらや右肩の傷に響いた。
「剣の重さが災いしたな。そんな状態で俺を斬れるかな?」
「天犬を斬るよりは楽だろうさ」
浩瀚はそう言って狼の剣を跳ね返し、ふらつく足取りで壁に寄り掛かり、肩で息をしていた。そうして、二人で睨み合っていた時に、一人の男が階段を駆け降りてきた。
「何があった?」
靖共がその男に声をかけた。男は片膝をついて頭を下げた。
「左将軍がお話があると官邸でお待ちです」
靖共は破顔した。
「拓峰の件が片づいたらしいな。すぐに行くと伝えてくれ」
男は「かしこまりまして」と答えると階段を昇って去って行った。靖共は浩瀚達を振り向いた。
「残念だったな。お前が強情を張ったおかげで、お前の仲間は全員死罪になる」
浩瀚は答えずに狼をねめつけたまま、ただ立っていた。
「仲間の命乞いもせんとは可愛気のない奴だ。おい狼、そ奴はもう殺してもかまわん!そ奴に証拠を握られた連中は自業自得だ。和州が無事ならわしに累が及ばないようにする方法も、連中の替わりも幾らでもある」
靖共はもう一度浩瀚の表情を確認すると鼻を鳴らして、階段を昇って行った。
「殺しのお許しが出たぜ。覚悟するんだな」
「今までは手加減していてくれた訳か?それでも、わたしは靖共よりも長生きすると決めているんでね。どうしてもわたしを殺したければ先に靖共を殺すべきだな」
「まったく、口の減らない男だな」
狼の斬撃は先程とは打って変わって切り返しが早くなった。浩瀚は致命傷を避けるのが精一杯で、腕や肩、胸などを切り刻まれていった。
 そして、狼が両腕を振り上げる瞬間に浩瀚は肩を怪我している右手に剣を持ち替えて左手を添え、狼の胴を薙ぎ払った。剣が太い骨に食い込む手応えはあった。狼は眼を見開き、持っていた剣を取り落とした。
「信頼する仲間に裏切られても、わたしは彼等を信じることを諦めきれないだろう。それでも彼等をこの手に懸けることになったら、正気でいることは恐らく出来ないだろうな」
浩瀚のこの言葉が聞こえたのか、血飛沫を上げて倒れながら、信じる者に裏切られた戴国の元軍人は笑っていた。
 浩瀚が牢から出ると、二人の闘いを見物していた見張りは階段を駆け昇って行った。浩瀚はその階段をゆっくり上がって外に出た。外は明るく、久しぶりの陽の光は眼に痛かった。そして、そこには大勢の見張りがいた。
 同時に掛かってきた三人は斬り伏せたが、足許がふらつき、剣で体を支えた。四人目を斬り、五人目を斬ると再び血を吐いた。それでも背後から掛かってきた六人目は斬った。しかし、七人目が斬り掛かってきた気配はわかったが、体が思うように動かなかった。浩瀚は余りにも自分らしい最期だと笑った。その一瞬は随分と長かった。浩瀚が緩慢に振り返ると七人目が自分に向かって倒れ込んできた。七人目のこめかみには矢が刺さっていた。浩瀚はその男を抱きかかえてその場に座り込んだ。
「浩瀚、無事か!」
声のする方向に顔を向けると、かつての学友が弓を持って駆け寄ってきた。その前を黄朱の老けた友人が見張りを斬り倒しながら近づいてきた。そして、彼等の更に後ろには禿頭達が更に集まってきてている見張り達と闘っていた。
 浩瀚は受け止めた七人目の死体を地面に寝かせて立ち上がったが、その場に踏み止まることができなかった。そんな浩瀚を黄朱の友人が抱き留めた。
「お前の処に行った父娘に、わたしが捕らえられていたことを柴望に知らせないでくれと伝えておいてくれ・・・」
半分意識がない状態でそう言うと、浩瀚は友人の腕の中に崩れ落ちて行った。





 扶王時代の才での官吏の横行は眼に余るものがあった。中でも鉱山に朱旌を閉じこめ、ろくなものも食べさせずに働かせ、働けなくなった者は放置され、死んでいった。また、逃げだそうとしても、見張りの州軍に殺され、その死体は堀尽くされた穴の中に埋められていった。その報告を訊いた黄朱の長が単身乗り込み、その救出のために朱氏や剛士が集められたのだが、当然その朱氏の一人と同行していた浩瀚も協力することになった。そして、その為の計画を立てたのも浩瀚だった。
 朱旌三千の後ろについて浩瀚は友人や他の朱氏達と共に州軍と闘っていた。州軍を目的地に惹き付けると先に進んだ朱旌達の後を追って騎獣を急がせた。州軍の隊列は前方の方が疎らに延びていった。そして、まだ延びきっていない後方に崖の上から土砂が降り注ぎ、土煙の中から兵士の断末魔の叫びが聞こえた。それでも残った州軍は浩瀚達を追ってきた。浩瀚達は逃がした朱旌達とは別の方向へ州軍を誘導し、林の中に入ると火を放った。風下にあった州軍の残りは火に巻かれ、阿鼻叫喚を上げながら谷底へ身を投げながら死んでいった。それはあまりにも手際よく、効率よくことが運びすぎていた。黄朱達は快哉を上げて喜んでいたが、浩瀚の心は暗澹としていた。無事に逃げ延びた者がいたことを祈るより他はなかった。

 浩瀚が目覚めるとそこは臥牀の中だった。傍には椅子と小卓が置いてあり、誰かが看病しているらしいことがわかった。肌触りの良い布の感触と清潔な衾褥に人間らしい世界に戻ってきたという実感があった。起き上がろうとしたが、全身が悲鳴を上げ、特に右腕は役に立たなかった。かろうじて体を支えられる左腕で起き上がった時に寝間の扉が開いた。中に入ってきた友人は眉を吊り上げて口を開いたが、溜息を一つ吐いて笑った。
「よく一人で起き上がれたな」
かつての学友はそう言うと傍らの椅子に座った。
「お前が看ていてくれていたのか?」
「今金波宮は眼が離せない状態でな、仕事を休んでいる場合じゃない。お前の看病はお前の友人だというお年寄りや子分だという禿頭の男が交替でしていた。今は俺が戻って来たんで代わったのさ。随分と風変わりな友人が多いな」
「大学時代にわたしの友人だったせいで出世ができなくなったというのに恨み言一つない奇特な奴もいたな」
友人は鼻先で笑った。
「今の朝廷で本気で出世したかったら、お前を売ればいいだけのことだろう?俺が連中の派閥に入るのが嫌で今の気楽な仕事をしているんだから誰に文句を言う筋合いはないと思うぞ。それに、お前が朝廷の連中に疎まれているのもお前のせいじゃないだろう?」
浩瀚は臥牀で半身を起こした状態で頭を抱えた。
「わたしは何日寝ていた?」
「三日だな・・・」
「拓峰はどうなった?明郭では何も起こっていないのか?」
友人はにっと口元で笑った。
「拓峰はお前の読み通り主上が関わっていた。靖共が送った禁軍は主上に平伏したらしいぞ。主上の勅命で靖共と呀峰、昇紘の三人は秋官に引き渡された。朝廷の連中は何が起こっているのかわからず、慌てている。俺はお前から聞いたことで見当がついたがな。それから、労からお前の行方に心当たりはないかと連絡が来た。一応知らないと答えてはおいたが、早く連絡を取った方がいいぞ」
「助かったよ。この状態で柴望に会ったりしたら小言を聞かされる」
「それと、これは労から聞いた話だが、青将軍は拓峰で主上と行動を共にしていたらしい。明郭の方は柴望が率いていた。あいつもお前に毒されてきたな。詳しいことはわからんが、お前が連絡を取れば二人から聞けるだろう?今回の件で主上が褒美を下さると仰ったので青将軍はお前の復廷を願ったそうだぞ。それを伝えるためにお前の行方を捜しているんだそうだ」
浩瀚は深く溜息をついた。
「余計なことをする」
「今回の件で全ての責任を負うつもりでいたくせに、報償はいらないと言うのか?そんなことは誰も納得しないぞ。受け取っておけ」
「残念ながら先約があるんだ」
「主上は愚かな自分でも仕えてくれる気があるならば堯天を訪ねて欲しいと仰ったんだぞ!誰もお前が断ったなどと言える訳がない。お前が自分で断って来いよ!」
浩瀚は力無く笑った。
「わたしが死んだことにすればいい。そうすれば主上だけでなく桓堆も柴望も諦めがつくだろう?実際、今生きているのが不思議なくらいなのだから」
「柴望も青将軍も諦めがつくと本気で言っているのか?お前がいなければあの二人も復廷なんぞしないぞ!それにあの主上ならお前を死なせたのは自分だと思うだろうな」
「二度と官吏に戻るつもりがないことはこの闘いを始めた時に決めていたことだ。死ななければ辞められないのならば仕方がない。それに、乱を起こすような人間を官として取り上げたりなどしたら主上の御為にならない」
「お前がそんなまともことを言い出すのは靖共に飲まされた薬のせいだ。余計なことは考えずに、ともかく休め。それで、元に戻ったらもう一度考え直せ!」
「体はかなり草臥れているが、頭ははっきりしている」
「主上の周囲には、お前のように主上の孤独を理解して差し上げられるような人間はいないんだ。朝廷にはお前のような人間が必要だ。それに、堂々と主上の傍に侍りながら刺客を退けられるのもお前くらいなものだ。戻って来い、浩瀚!」
「わたしを引き込んだら今まで以上に主上のお命が危険になるぞ」
「拓峰の件で今のままでも十分危険なんだよ!お前ならそれを排斥する手段もとれるだろう?」
「桓堆がいるから大丈夫だ」
友人は首を傾げた。
「元青将軍の字だ。彼がいなければわたしの命などとうになくなっている」
「重傷を負っても相変わらず口数の減らない男だな」
友人は浩瀚の肩を掴んで臥牀に押し倒した。通常ならばどうということはないが、重傷を負っている浩瀚は石の壁に叩き付けられたように呻いた。
「今は何を言っても聞いてやらん。大人しく寝ていろ!」
友人はそう命じると扉を乱暴に閉めて寝間を出て行った。





 浩瀚はふらつく足取りで騎獣商へ辿り着いた。
「あいつの邸宅にいたら復廷しろと煩いんでな。ここに泊めてくれ」
壁に寄り掛かり、腕を組んで肩で息をする浩瀚に、騎獣商の老人は溜息をついた。
「それはともかく、奥に入って横になれ」
老人はそう言うと浩瀚を自分の臥牀に寝かせた。
「ここには騎獣用の薬しか置いてはおらん。それに文句を言ったら追い出してやる。大人しくそこで待っていろよ」
浩瀚は老人が戻ってくるまでに、骨折と傷のせいで出た熱の影響か、うとうととしていた。老人が傷の手当てを始めると浩瀚はゆっくりと眼を開け、老人を見つめた。
「犬狼真君に髭はなかったぞ」
「どこで会ったんだ?」
老人は手を止めずに静かに訊いた。
「令乾門の近くだった。飲まず食わずで死にかけていたところを妖魔に襲われ、間一髪で助けられた。そして、令乾門が開くまでの分だと水と百稼を与えてくれたのさ」
「何故今まで言わなかったんだ?」
「国に戻ってやるべきことがあると言われた」
老人は笑った。
「それで今回のことで終わりにしたつもりなのか?」
「ああ」
「お前は采王に会い、四十年前の州軍を壊滅させたことを贖罪するつもりなんだろが、それはもう無駄だぞ」
「どういうことだ?」
「あれは俺達がやったことだと宣言してあるからな。それで同じような境遇にあった朱旌達も立ち上がって、自由を取り戻した。今更、朱旌でもない者が名乗り出られても迷惑だ」
老人は厳しい眼で浩瀚を睨め付けた。
「お前は三千人を助けるために州軍七千五百を壊滅させたことを気にしているようだが、あれで勇気を得て、助かった朱旌は一万を超える。気にするなと言っても無駄だろうが、吹っ切ることぐらいはできるはずだ」
「吹っ切ってどうしろと?まさか、官吏に復帰しろと言うのではあるまいな?」
「そのまさかだ。お前はもう、官吏以外にはなれん。そんなことはお前自身がよくわかっているはずだ」
「わたしにはもう、黄朱になる資格はないというわけだな」
「そうだ。それに、真君が言っていたお前のやるべきことはまだ終わっていないようだぞ」
その時、店の方が大勢の声で賑やかになり、浩瀚は片眉を上げた。
「お前が呼んだのか?」
老人は歯を剥き出して笑った。
「お前を看病してくれた人間に礼は必要だろう?」
浩瀚は額に手を当てて、くつくつと笑った。大勢の足音が近づいて来ていた。
「降参しよう、復廷する」
老人は太い笑みを浮かべて、立ち上がった。

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2003.

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