紅の憧憬もしくは彷徨える暁
(一) 攻 防 2




 浩瀚は頭から水をかけられて眼が覚めた。真冬の水は冷たく、牢内は暖かいとは言えなかった。腕に妖魔の爪痕がある男に殴られた個所がどくどくと脈打っていた。両足は床に固定され、両腕は鎖で吊されていた。
「悪趣味だな。お前は無駄に長く仙であり過ぎて忘れているようだが、普通の人間は冬に水を浴びせられると風邪を引くものだ」
浩瀚が眼前に立つ靖共に言うと、靖共は鼻先で笑った。
「ただ人になっても口数の減らない奴だ。今やお前の命はわしの手の中にある」
「拷問は相手が望みの証言をするまでは生かしておくものではないのか?」
「それも、死んだ方がましだと思える状況に追い込んでな。父親の仇を取ろうなどとは健気だが、結局父子共々同じ運命を辿ることになるとは哀れだな」
勝ち誇って言う靖共の言葉に浩瀚は眼を見開き、その意味する内容を胸に収めるとくつくつと笑い、やがては声を上げて高笑いになっていった。
「何がそんなに可笑しいんだ?」
眉をひそめて靖共が問い掛けたが、浩瀚には聞こえてはいなかった。
「おい、こいつの莫迦笑いを止めさせろ!」
なおも笑い続ける浩瀚に苛立った靖共が怒鳴った。腕に妖魔の爪痕がある男は馬に使う鞭で浩瀚を打ち据えたが、笑いは止まらなかった。男は鞭を槍に持ち替えて柄の先端で浩瀚の胸を力任せに打つと、笑い声が消えた。男はあばらを折った感触に笑みを浮かべたが、それはすぐに凍り付いた。顔を上げた浩瀚の眼は靖共に据えられ、口元は笑っていた。靖共は身震いした。
「お前がわたしの父を死に追いやったなどとは初耳だ。わたしにそれを知らせようとした人間も何人かいたが、聞かなくて正解だったな」
「莫迦な!それならばなぜお前はわしの邪魔ばかりしておるのだ!」
「わたしの前任の麦州侯を含む一次昇山を剛士を使って襲わせたのは貴様だな?前和州侯も、松塾の焼き打ちを命じたのも」
「それがどうした。自分を脅かす輩を排すことなど誰でもやっていることだ。お前と同様にな」
「ではなぜ、元麦州侯や元和州侯、征州侯の家族を殺す必要があったんだ?」
「あやつらが聖人君主面をしていられたのも人が羨む様な家族があったればこそだ。民がそれを失って行く中で見せ付けるなどとは片腹痛いとは思わないか?」
「そんな理由で予王も家族と引き離したのか!」
「そう、あの女は随分と脆かったな。妹の方は骨があったが、しょせんは女だ。お前に惚れてわしへの復讐を諦めたのだからな。それがお前を追い落とすきっかけになるとは皮肉だったな」
「柴望の婚約者を死に追いやったのも同じ理由か?」
「あの男はなにもかも恵まれ過ぎだ。その中の一つを失った位で全てを捨てるなどとは莫迦な奴よ。父親を失って里家へ預けられたお前ならばわかるだろう?奴を自分の下に置いて気分が良くはなかったか?」
「気違いめ!誰も彼もが自分と同じ卑しい心根と思っているのか?官邸には子供が少なかったからな。里家へ預けられたわたしが喜んでいたと家族に呆れられていたことなど知るまい。狭い家で家族がいつも眼の前にいる生活が幸せだったとは信じられぬのだろうな」
「それは負け惜しみというのだ。人間誰しも欲しいものを手にしなければ満たされない。復讐に関心がないならばなぜお前は市井で家族を持たなかったのだ?仙としての不老長寿か、官吏としての栄華を求めたからであろう?」
「お前達がこの国をここまで荒らしていなければ、貴様等が麦州の令伊を弑虐しなければわたしは令伊にも州侯にもなることはなかったはずだ。それに、わたしが欲しかったのは民からの賞賛ではなく、人が人として当たり前に生きていける国だ。王さえ玉座にあれば、大地の恵みは約束される。たったっそれだけで、民は豊かに暮らすことができる。なのに、何故慶の民は昔の栄華や他国を羨むのだろうな?女王が無能だと言いふらしているのは誰だ?官が言い出さなければ民にまでは及ばない。だが、王を補佐する官がその努力もせずに王の無能を誇張するのは何故だ?」
「努力をしても無駄だったからに他ならない。女をすべて国外追放にするような王を戴いてどんな、努力をしろというのだ?」
「ふん、官吏に都合のいい王などそうそういるものか!女王を追いつめてきた貴様等がそれを言うのか?民を、国を想うのならば貴様等のその口を塞ぐことが一番だと、まだわからんのか!」
「そんなことで潰れる王など長くはもたん。それならば、さっさと見切りを付けた方が民のためだとは思わんのかな?」
「貴様は長く仙であったせいで、肝心なことを忘れているぞ。限りある命を持つ者にとっては、その短い間の安息がどれだけ大事なことか考えられないらしいな」
「お前はその為に官になったとでも言うのか?」
「可笑しいか?」
今度は靖共が耳障りな高笑いをした。
「お前はたった十年や二十年の安らぎのために刺客に追われ、人並み優れた能力を使うつもりなのか?随分と志が低いではないか!」
「たったの、だと?十年もあれば赤子は言葉を話し、近しい者のために自分が役立てられることを知る。二十年もあれば成人だ。その間の平穏が人にどれだけのものを与えられるか考えられん奴に官の資格はないぞ!」
「国に乱を起こそうとしている元官吏に言われる筋合いはないな。この国で一番官吏の資格がないのはお前だ」
「わたしの官吏の資格ぐらいは何ほどでもない」
浩瀚の言葉に靖共はくつくつと笑った。
「お前とわたしはどんなに話し合ってもお互いに相容れぬ。集めたという証拠の在りかを教えるのだ。そうしたら楽に殺してやろう」
「殺されるとわかっていながら話すと思っているのか?わたしが死ねば証拠は間違いなく主上に届く。わたしが行方知れずになってもそれは変わらない。それに、じき和州の呀峰も失脚するだろう。わたしが死のうが生きていようがな。貴様の吠え面を見られないことだけが心残りだがね」
「減らず口を、狼!こやつの口を割らせる方法はあるか?」
狼と呼ばれた腕に妖魔の爪痕がある男は腰にある剣を抜き、浩瀚の眼の前に翳して相手に恐怖がないことを確認してから右肩を貫いた。呻き声も上げずに口元だけで笑う浩瀚と狼と呼ばれた男の視線が交錯した。狼が浩瀚の肩に刺した剣をえぐっても浩瀚は僅かに眉をひそめるだけだった。
「痛め付けてもこの男には効かない。やっても時間の無駄だな。見かけによらず修羅場に慣れている。人質が一番効果的なんだが、あの親子をもう一度捕らえて来るか?」
「こいつを捜している人間がいたら足が付く。こいつの周りには人質になりそうな人間は他にはおらん。別の手はないのか?」
「時間はかかるが、眠らせないという方法がある。七日ほどで確実に発狂するが、これはこっちの精神力も必要になるから、こいつを見張る人間は厳選しなけりゃならない。他には薬だな。仙には効かないが、普通の人間には効果的だ。薬が効いている間は極上の夢が見れるが、切れると耐え難い苦痛が襲う。最初の間は耐えられても回数を増す毎に薬無しではいられなくなる。そして、薬の効力も次第に短くなり、薬のためなら何でもするようになる。そうなるまでは個人差だが、死なない程度に薬を与え続ければ五日もあれば理性は保てなくなるだろう。そうなったら、元の状態に戻ることは難しくなる。後は廃人になるだけだな」
「では、薬でやれ。こいつの小生意気な口振りが懇願に変わり、今まで商人の上前を跳ね、朝廷を脅していた人間が、哀れにも薬だけを欲しがる存在になり果てるのは見物であろうよ」
自分の眼の前で胸の悪くなる相談を聞きながら浩瀚はくつくつと笑った。
「何が可笑しい」
靖共が言った。
「五日もあればお前の吠え面を見られるな」
「その強がりがいつまで続くか楽しみだ」
狼と呼ばれた男が笑って言った。





 最初は手足は戒められたままだが、怪我は手当てされ、甘ったるい薬を数時間おきに無理矢理飲まされるだけだった。自分で傷を抉っても痛みも感じず、意識も朦朧とし、三十年以上前に諦めた女の夢ばかり見ていた。
 彼女は美しいだけでなく、生気に溢れ、浩瀚を戸惑わせては楽しんでいるような女だった。浩瀚もそれが不快だったわけではなく、彼女に深く惹かれていく自分をを止める気はなかった。
「お前は次の冬至に令艮門から出ていくつもりつもりだろう?」
浩瀚が与えられた部屋は整然としていて何もなかった。その部屋に入ってくだんの美女が訊くので、浩瀚は「ああ」と答えた。
「お前はここから出られない」
「何故だ?」
「誰もお前に言わなかったのか?この里に入ったものは黄朱でなければ出られない」
「それはわたしに黄朱になれと言っているのか?」
「そして、わたしと結婚するんだ」
「そなたは慶の出身だったのか?」
浩瀚はくつりと笑った。
「わたしはここで生まれてここで育った」
「まさか・・・」
浩瀚は彼女を見つめ、眼を見開いた。彼女は婉然と微笑んだ。
「ここには里木がある。だから結婚も出来る」
浩瀚は横を向いて眼を伏せた。
「わたしと結婚しても子は期待できない。そなたがこの里の長ならば、その知識をその子に伝える義務があるのだろう?」
「それはお前が才の州軍を壊滅させたことを言っているのか?あれは、おのが私腹を肥やすために金のかからぬ労働力として捕らえられていた朱旌を助けるためだったはず。ならば、十二国中に散る朱旌を束ねる長の夫として相応しいことだとは思わないのか?」
「国も朱旌も関係ない。わたしが三千人を助けるために、七千以上の人間を殺したことに変わりはない」
「それはお前がわたしと結婚をしたくはないという意味か?」
浩瀚は首を横に振った。
「そんなことを言っているのではない。子を成せぬ男と結婚したらそなたの今の立場が危うくなると言っている」
「そんなことは言い訳だ!お前なんか黄海で野垂れ死にしてしまえばいい!」
彼女はそう叫んで、部屋を出ていった。浩瀚は壁によりかかり、前髪を掻き上げると眼を閉じた。
「結婚をしても子が授からなければ、そなたはわたしを捨てねばならないというのに・・・」
浩瀚は明くる日の早朝にその里を後にした。里を出た林の入り口の木には革袋が下がっていた。その中には白い満甕石と百稼が詰め込まれていた。浩瀚は里を振り返ったが、誰も追いかけてくる気配はなかった。それは黄海を一人で渡って生きて出られたら何もなかったことにするという、彼等流の感謝の気持ちと受け取った。





 翌日は薬が切れるまで薬は飲まされなかったが、代わりに酷い悪寒と吐き気と無力感が襲った。肩の傷を抉ると激しい痛みが走った。狼と呼ばれる男が楽しげに監禁場所へ薬を持って入ってきた。
「気分はどうだ?といってもお前ならばまだ意識がはっきりしているだろうがな。お前が譫言で言っていた女の名が昔の女らしいな。この国に住む同じ名の女を全て殺してやろうか?」
浩瀚は気怠く狼を振り向き、壁に凭れかかって肩で息をした。
「無駄なことだ。一年前に死んでいる」
「それが寂しくて偽王の舒栄に手を出したのか?」
浩瀚はくすくすと笑った。
「彼女は普通の人間だったから、一年前で五十は過ぎてる。夫も子供もいたから、孫もいたかもしれない」
「慶が平和だったら、その夫はお前だったというわけだな?」
「それはない。彼女は子供を欲しがっていたからな。わたしは三千人を助けるために七千五百からの人間を殺したことがある。わたしと一緒になっても子供は期待できない」
狼は七千五百という数に片眉を上げた。
「お前まさか、白備一軍を壊滅させたんじゃないんだろうな?」
浩瀚は笑って答えなかった。
「わたしはただ、彼女と親友のために何かをしてやりたかっただけだ。それがこの国ではなにもしないことが彼等のためになることだった、・・・っ!」
突然襲った酷い悪寒に浩瀚は眼を見開いてから体を二つに折り、歯を喰い縛った。あばらがあげる悲鳴に悪寒が多少和らいだので、戒められたままの手で肩の傷を抉った。しかし、狼がその手を強引に引き離し、眼の前にあの甘ったるい匂いのする薬を差し出した。
「こっちの方がよく効くぞ」
「そいつは甘すぎて好みじゃない、と言っても無理矢理飲ますのだろうな?」
両手を挙げさせたまま狼は浩瀚の手に薬の入った器を持たせた。
「無理矢理流し込まれるか、自分から飲むかしか選ぶことはできない」
浩瀚が渋々器に口を付けて薬を飲むと狼は薄笑いを浮かべた。
「良い夢を見るんだな」
狼は浩瀚が酩酊状態になるのを待って牢を出ていった。狼の足音が消えると浩瀚は緩慢に体を起こし、口にしていた薬を吐き出した。しかし、三分の一程は飲み込んでいたので、壁に凭れて薬が切れるのを待った。ゆっくり休めるのはその間しか残ってはいなかった。

 黄海では何度も死にそうになった。令坤門から友人と入ってきた時にもそれなりに苦労もし、黄海について説明を受けていたが、たった一度の経験だけで渡れるほど黄海は甘くはなかった。妖魔と闘い、あるいは振り切っているうちに道から外れ、大きく迂回していた。
 ようやく令艮門が見える場所に辿り着いたときには天伯の咆吼が響き渡った。浩瀚が走って門に辿り着いたときには既に門は閉まっていた。浩瀚は思いきり門を叩くと、背中を扉に預け、その場に座り込んだ。しばらくそうして惚けていたが、やがてくつくつと笑い出すと浩瀚は春分に開かれる令乾門に向かって歩き出した。満甕石と食料の残りは三分の一に減っていた。

 浩瀚は薬が切れた禁断症状と闘って憔悴しきっていた。正気を保つ為に体を壁に打ち付け、肩の傷を抉って耐えていたが、瞳からかつての光が失われることはなかった。
「黄海での絶望的な旅に比べれば、こんなことは拷問の内にも入らないぞ、靖共」
浩瀚はそう呟いて、くつくつと笑った。全てを失ったあの時でも死のうなどとは思わなかった。今は少なくとも靖共の望み通りに死んでやる気はなかった。

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2003.

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