蒼の孤独もしくは嘆きの蜃気楼
(一) 予 王 1


 悲願の景王が起って、浩瀚は麦州侯に封じられた。それは柴望が州城や麦州の民の嘆願書を集めて上奏した結果だった。朝廷の息のかかった人間が遣わされる前に先手を取る為、柴望はまず民の間に浩瀚が温厚篤実な人物であると噂を流した。当然浩瀚は渋い顔をしたが、元々が真面目な人間に対しては人当たりがよかった為、柴望の思惑は成功した。そして、州城内の風紀を改革していく毎に以前の揶揄は消え、怜悧な人物という評価に変わって行った。結果、景王選定の報を聞いた直後から行動して、麦州全州を挙げての計略が功を奏した。
 麦州侯となった浩瀚は元州宰を令伊に、柴望を州宰に、桓堆を州軍左将軍に任じた。柴望は浩瀚に匹敵する手腕の持ち主として異議を唱えるものもなく、桓堆も以前から州軍兵士達に武技を指導しており、士官達に人望もあった。
「正気ですか?わたしは半獣なんですよ!」
「心根が卑しい獣である者が朝廷に多くいるんだ。姿が半分獣なくらい何程でもない。お前は誰よりも人間らしいではないか」
「戸籍は誤魔化せないんですよ」
「そんな箇所など、破り捨てておけばいい。一々諸州の戸籍を調べに来る奴などいはしないさ」
「堂々と法令無視をなさるのですか?州侯となった貴方が?」
「半獣に対する差別が残っているのは十二国中でも慶と功くらいなものだ。いずれは消える法を大事に守ることもない。そうは思わないか?柴望」
「貴方の仰ることはわかりますが、わたしには出来ないでしょうね。しかし、反対する気などありませんよ」
「心配するな、桓堆。追求されても知らぬ、存ぜぬ、何かの間違いだで通してやる。尚も追求するようなら間違いなく小金が目的だ。出し惜しみをしなければ喜んで口を閉ざすだろう。こういう時には腐敗した官吏も使えるな」
楽しそうに言う浩瀚に柴望と桓堆は溜息をついた。
「しかし、現景王は政治にあまり興味を持たれない方のようですね」
「それでいいんだ。積極的に政治を行い、果敢に官の整理などしたら、今の朝廷では弑虐されかねない。慶が天の恵みを受けて元の姿を取り戻すためには、連中の傀儡でもいいから王が玉座にあることが必要だ。朝廷に巣くう獣共を一掃するためにも麦州と和州で朝廷の連中を振り回してやることだ。そうすれば何れは向こうから尻尾を出すだろう」

 景台輔が蓬山へ呼ばれて戻ってから数日後、金波宮へ登城していた浩瀚は王に呼ばれた。通された積翠台には天女と長い金の髪を持つ美貌の青年がいた。この絵になる二人が名目上の慶国の最高権力者である景女王舒覚と第二位の権力を持つ景台輔だった。仲が悪いと噂されていたが、それはまさしく一枚の絵のようにしっくりと収まる光景だった。浩瀚は膝を折り、叩頭した。
「顔をお上げなさい。州官と民の請願を受け、麦州侯となったそなたに折り入って相談したいことがあります」
「わたしに出来ることならば何なりとお申し付け下さい」
そう言って顔を上げた浩瀚を見て景王は眼を見張った。浩瀚の表情が揺らぐと眼の前の天女は花が風にそよぐようにくすりと笑った。
「気にしなくてもよろしいのですよ。温厚篤実な御仁と聞いていたのでもっと落ち着いた風貌を勝手に想像していただけです。もう一つの怜悧な男だという噂にはぴたりと符合しています」
笑いを含む天女の声は天上の音楽のようだった。
「我が州の州宰ならば主上のご期待に添えるでしょう」
「麦州には良い官が揃っていると見えますね、羨ましいことです。この朝廷をそなたの麦州のようにするには何が必要か教えてくれませんか?」
「今は何もなさらないことです」
天女は美しく弧を描く眉を寄せた。
「どういうことです?わたしには無理なことだと申すのですか!」
厳しく睨め付ける天女に浩瀚は首を横に振った。
「わたしにも今の朝廷では何も出来ません。麦州は元々反骨の気風がある土地柄なので民が官吏の専横を許さず、朝廷の腐敗に流されなかったに過ぎません。しかし、その大本であるはずの朝廷の腐敗は既に百年にも及びます。これを一気に掃討するとなると主上を弑虐せんとする者が現れるでしょう。まずは主上が長く玉座にあることです。そうすれば民の生活も安定し、我が麦州の民のように腐敗した朝廷の官を糾弾することでしょう。それまで彼等に朝廷を貸しているだけだとお思いになればよろしいのです。そして実権のない官を味方に付けていくのがよろしいかと思われます」
「そなたを朝廷に呼び寄せることはどうです?」
「恐れながら主上、それだけはお受けできません。わたしは朝廷の官達には非常に疎まれております。主上が御自らわたしを朝廷に引き上げたとなると主上を弑虐せんと企む者を揺り起こすことになるでしょう」
「そうですか、そなたを引き抜くことは諦めましょう。しかし、そなたと話していると何やら力が沸いてくるようです。朝廷の傀儡として有ることには変わりはないのに彼等を操っているようで楽しくなってきます」
天女は光を振りまきながら笑った。
「主上を己の意のままにしようとする者にお心を悩ませる必要など有りません。これからも微力ながら主上の憂いを取り除けるよう努力を致しましょう」
浩瀚は深く叩頭して景王の前より辞した。


 浩瀚が港の整備の件で担当の官達と打ち合わせをしていた時に堂室の扉が勢いよく開いた。そこに立っていたのは州軍左将軍の桓堆だった。彼の顔には普段の気の良さが払拭されていた。
「断りもなく入ってくるなどとは、貴兄は無礼だぞ!」
浩瀚は怒りをぶつける州司馬を片手で制した。
「かまわん。どうした、桓堆?お前が慌てるなどとは前任の州侯が亡くなった時以来だ。何があった?」
桓堆は片膝を付き頭を下げた。
「無礼は幾重にもお詫び申し上げます。ですが、和州侯が弑虐されたと青鳥(しらせ)が入りました」
堂室内にどよめきが広がった。
「誰に弑虐されたのだ?」
州司馬が桓堆に問い掛けた。
「令伊(さいしょう)、と青鳥では報告がありました」
「青鳥では、ということは裏があるということだな。どだい、あの令伊が州侯を弑虐するはずはない」
「はい、和州の州軍の一人が直接我が軍にやってきています。彼の話によると逃亡して追われた令伊が崖から転落し、その遺体が見つからずに躍起になって捜索しているようなのです」
「令伊に生きていてもらうと困る人間がいると言うことだな?和州令伊が生きているのならば頼れるところは今のところ我が州だけのはずだ。どこまで手配した?」
「和州軍の動きを見張ることと、州境の見張りを増やしました」
「それでいい。何としてでも連中よりも先に和州令伊を保護しろ!」
「かしこまりました。後は州城の守りも固めなければなりません。次の和州侯はおそらく朝廷の息のかかった人物に違いありません。刺客がいまの倍になりますよ」
堂室内は静まり返った。
「港の整備は後回しだ。関係者を呼んでくれ」
桓堆は短い返事をすると堂室を辞去した。

 和州侯弑虐から数日後、浩瀚が一人で執務していると今度は柴望が無表情に入ってきた。
「今度は何だ?」
「これ以上に悪い青鳥はないでしょうね。新しい和州侯に呀峰が封じられました」
浩瀚は大卓を叩いて立ち上がった。
「呀峰の悪名は国中に知れ渡っている!主上がそれをご存知ないわけがない!」
「どうされます?呀峰が和州侯になったのならば、刺客は倍以上になるでしょうね」
「これから堯天へ行き、明朝一番に主上への謁見を申し出る。主上の身に何かが起こっているはずだ」
「ならば、必ずや桓堆をお連れになって下さい」
「左将軍を丈身の代わりにしろと?」
浩瀚は柴望を睨め付けた。
「ええ、和州の二の舞は御免です」
浩瀚は椅子に体を投げ出した。
「わたしの腕では頼りないと言うわけだな。勝手にしろ!」

 浩瀚が謁見を申し入れても景王どころか景台輔すら目通り出来なかった。浩瀚は仕方なく、大宰に面会を申し出た。
「ここのところ、主上が眼をかけた者が次々と殺されている。今では主上に笑いかけ、言葉をかける者がいなくなった。主上が貴兄にお会い下さらないのは貴兄の命を惜しんでのことだろう。主上のお心遣いを無にしてはいかん」
浩瀚は書卓に拳を叩き付けた。
「今更わたしの命を惜しむのか?そんなことはここ三十年近くずっと続いていたことだ!大宰からも、もう一度主上へお目通り下さるよう説得して頂きたい!」
「主上は断じて貴兄には会わないと仰せになっている。それは台輔にも厳命していることなのだ」
「貴兄は自身の命を惜しんで主上を見限るつもりか!」
怒りを込めて睨み付けてくる浩瀚の視線を大宰は受けることが出来なかった。
「是非もない」
大宰は横を向いて呟いた。

 堯天からの帰路の途中で馬車がいきなり止まると、浩瀚は頭を庇って肩をしたたかに打ち付けた。桓堆はすぐに外へ飛び出していた。浩瀚も後を追って外へ出たが刺客はいなかった。
「どうした?」
桓堆の声が聞こえた。
「き、き、急に人が、飛び込んで、きて、で、でも、轢いては、いない、んです・・・」
泣きそうな声で御者が言った。馬の前には難民らしい男が横たわっていた。
「言い訳は後でいい!相手の無事を確認しないか!」
浩瀚は横たわっている男に近づいて声を掛けた。返事はなかったが首に手を当てると脈はあった。ゆっくりと体を持ち上げて顔を覗くと浩瀚は眼を見開いた。
「和州、令伊・・・」
 浩瀚は和州令伊を近くの宿舎の一室に横たえ、桓堆が瘍医(いしゃ)を連れてきた。瘍医は和州令伊を診ると首を横に振って出ていった。和州令伊の見かけは四十代後半だったが、痩せ衰えた今は六十の老人のように見えた。彼が眼を開けると浩瀚は頷いて見せた。
「わたしがわかるか?」
和州令伊は微かに頷いた。
「もう、大丈夫だ。貴兄はわたしが守る。ゆっくり養生してくれ。何か今必要な物はあるか?」
和州令伊は卓子の上にある水差しを見つめた。浩瀚は水を茶杯(ゆのみ)に注ぎ、彼を助け起こして水をゆっくり飲ませた。和州令伊は水を半分飲み終えると深く息を吸ってゆっくりと吐いた。浩瀚が再び横たえようとすると彼は浩瀚の両袖に力無くしがみつき、浩瀚の眼を覗き込んだ。
「・・・に、気を・・・ろ」
「無理をするな。貴兄が落ち着いてからゆっくりと話を聞く」
和州令伊は微かに首を振った。
「せ、い、きょう・・・」
和州令伊は肩で大きく息をした。
「靖共、冢宰のか?」
和州令伊はゆっくりと深く首を垂れて、再び浩瀚の眼を覗き込んだ。
「靖共に気を付けろと言うことか?」
和州令伊は微笑みながら全身の力を抜いて崩れ落ちた。浩瀚は令伊の体を支えた。
「和、しゅ・・・を・・・のむ」
和州令伊はそう言うと静かに眼を閉じた。浩瀚の腕の中にあった令伊の体がずっしりと重くなった。浩瀚は令伊の体を抱きかかえた。
「和州侯を弑虐し、貴兄をこんな目に遇わせた者を断じて許しはしない」
傍に立っていた桓堆は横を向いて俯いた。


 浩瀚は最近景王が足繁く通っているという堯天郊外の園林へ何度か足を運んだ。そこへは雑貨を扱う行商人として赴き、商品を売るよりも子供達と遊んでいることの方が多かった。そして、中でも子供達に一番信頼のある雉を飼っている少年と親しくなった。彼も面白い遊びや他国の話をしてくれる浩瀚がとても気に入っていた。
「ここには、とても綺麗で優しいお姉さんが来ると聞いたんだけど、わたしも逢えるかな?」
少年は意外そうに眼を見開いた。
「あんたでもそんな興味もあったんだ?」
「大人の男は殆ど美人が好きだよ」
少年はくすくすと笑った。
「ここに来ても遊んでばかりで商売っ気のないあんたに大人達は呆れているよ。子供のまま大人になったのかと爺ちゃん達は言っている。嫁さんになった人は大変だろうってね。あの人は裕福な家のお嬢さんだから、恋人にするのも難しいと思うよ」
「でも、刺繍や織物が得意だと聞いた。仕入れさせてくれないかと話をするだけならいいだろう?」
少年は腕を組んで大人のように難しい顔をした。
「そこまでして会いたいんならなんとかしてやるよ。多分、明後日には来ると思うよ。妹達と約束をしたらしいからね」
「ありがとう、恩に着るよ」
 それから二日後、浩瀚は少年に連れられて、景王が子供達に刺繍を教えている庵に入った。景王は浩瀚を認めると眼を見開き、卓子に刺繍道具を置いて立ち上がった。
「知り合いだったの?」
少年は浩瀚を見上げて言った。
「何故、ここまで来たのです!わたしを諫めに来たのですか?」
自分を睨め付けて言う景王に浩瀚は「いいえ」と首を振った。
「わたしをお召し上げになる件をお受けしたいと思って参りました」
景王は眼を見開いて、口に両手を当てた。
「ひょっとして、お姉さんはあんたの恋人だったの?」
少年は浩瀚の袖を引いて小声で聞いた。
「二人きりで話をさせてもらえるかな?」
浩瀚の言葉に少年は眼を輝かせた。
「外にいる丈身の人達には内緒なんだね?」
浩瀚が「そう」と頷くと少年は少女達を引き連れて窓から退散した。殿(しんがり)の少年は窓枠に乗って浩瀚を振り向いた。
「頑張れよ!」
そう言って少年が片手を上げ、ひらりと飛び降りると窓の外で小さな手が幾つも振られた。
 子供達の姿が見えなくなると浩瀚はその場に叩頭した。
「突然まかり来したご無礼をお許し下さい」
「わたしの為にここまでする莫迦な人間は貴方くらいなものです。麦州侯・・・」
「お望みとあらば、他にも集めてご覧に入れます」
「わたしはそれを望みません。そういう人材は次王の為に集めなさい」
「いいえ!主上はまだ失道もなさってはいない。まだ間に合います。慶の王は主上以外の誰でもあり得ません」
浩瀚は顔を上げて訴えたかったが、景王はそれを許してはいなかった。
「両親が亡くなりました。呀峰を和州侯にすることを認めなかった間の出来事です。そして、わたしにはまだ大学に通う妹がいます。彼女はただ殺されるだけでは済まないでしょう。妹を守るためにわたしは和州の民を犠牲にしてしまいました。それがどんなに愚かなことかはわかっています。でも、わたしにはそうすることしか出来なかったのです。妹までもを失ったらわたしはこの国を憎んでしまいます。そなたも麦州の民を人質に取られたら身動きが出来なくなるのではありませんか?」
「主上をお守りすることは慶の民を守ることです。わたしは主上の為に麦州の民を犠牲にも致しましょう。そして、その罪はこの身で贖います」
「それだけは許しません。そなたが麦州侯を降りれば朝廷への楔がなくなります。そなたを残すことは麦州の民を救うこと、わたしには彼等と妹を救う力しか残されてはいません。その他の者達の為には失道するまでの月日をなるべく短くすることだけなのです」
「ご自分から滅びると申されるのですか!」
浩瀚は頭を下げたまま叫んだ。
「景麒は必ず残しましょう。わたしが失道しても、景麒を長く苦しませたりはしません。景麒が次王に長く仕えられるように、早くわたしを忘れられるように、わたしは景麒に字を与えないことにしました」
「妹君はわたしの信頼できる人間に保護させましょう。彼は命に代えても妹君を守ります!そして、麦州の民を守る者も大勢おります。主上はどうか、結論をお急ぎなさいますな」
浩瀚は叩頭したまま尚も訴えた。
「いいえ、もういいのです。妹が姿を消しても彼等はわたしのお友達や近所の親しかった人達をも犠牲にするでしょう。それに、例え見ず知らずの善良な人々を人質にされてもわたしにはもう耐えられません。わたしにできることは、この身を終わらせることしかないのです。もうこれ以上、わたしに王として在れとは言わないで下さい」
景王は両手で顔を覆った。
「麦州へお戻りなさい、侯。そして、ここへは二度と来てはいけません」
「ひとつだけ教えて頂きたいことがあるのです。呀峰を操っている者に心当たりはございませんか?」
景王はぴくりと肩を振るわせた。
「確証のないことなど言えません」
「冢宰の靖共ではないのですか?」
景王は何も答えなかった。庵の中の時が止まった。
「お行きなさい、侯!命令です」
景王の声は震えていた。浩瀚は立ち去るために顔を上げて立ち上がった。景王は後ろを向いて肩を震わせていた。
「主上、忘れないで下さい。主上からお声が掛かればいつ、いかなる時でもわたしは御前に参ります」
景王は浩瀚の言葉に首を横に振った。

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2003.

[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.


Albatross−翠玉的偏執世界−
背景素材:トリスの市場
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送