翠の墓標あるいは裏切りの荒野
(二) 陰 謀




 浩瀚が麦州の令伊に任命されてから六年目に慶国中の嗣廟に麒麟旗が翻り、麦州侯が昇山することになった。自分たちの命を狙う者の正体は未だ掴んでいなかったため浩瀚は頑強に反対したが、 麦州侯は聞かなかった。
「ならば、わたしもお連れ下さい。わたしは黄海に一年ほど暮らしたことがあります」
麦州侯は眼を見開いて浩瀚を振り向いた。
「お前、黄朱にでもなるつもりだったのか?諦めてくれて麦州にとっては幸いだったな。お前だけは連れてはいかん。わたしに何かあったらこの麦州を任せられる者は他にいないからな」
「では、随従はなるべく減らし、剛士を三名以上は雇って下さい。ここに行けば優秀な剛士を紹介してくれるでしょう」
そう言ってすでに店の名前を書いた紙を麦州侯に渡した。
「黄海はこちらの常識の通じない土地です。そこで暮らす人間も自然、風変わりになっていますが、彼等は黄海で生き抜く術に長けています。彼等が危険だと言うことは本当に命の危険があるということなのです。あの土地では人間の命など非常に儚い。誰かを弑虐しようとするならばあれほど容易い場所はないのです」
「覚えておこう。もしもわたしが蓬山公に選ばれたらお前を冢宰にしてやるからな」
「遠慮しておきます。これ以上刺客に増えられてはたまらない」
浩瀚の言葉に麦州侯は快活に笑った。刺客につきまとわれ、明るくいられるのはここ麦州くらいなものだった。麦州と同じく交易の要所である和州の州侯と令伊は厳重な警護に囲まれていた。王がいなくては新しい州侯は任命されず、州侯がいなければ令伊も任命されない。その二つを排そうとするからには州城内には朝廷の息のかかった者が多く入り込んでいるということでもあった。

 麦州侯が旅立った後に浩瀚の側には意外な人物が立っていた。しかも彼は州侯の個人的な杖身で、州侯の信頼も厚かった。当然今回の昇山の随従に選ばれて当然の人物だった。
「桓堆は共をしなかったのか?」
桓堆は頭をかきながら苦笑した。
「州侯が貴方は相当人の好き嫌いが激しいから、気に入られているわたしに残れと命じられたのですよ。味方が誰もいないに等しい州城に一人残すのは忍びないと仰ってね」
浩瀚は大いに顔を顰めた。
「子供じゃあるまいし、大体信用のおける者が一人でも必要なのは州侯の方だったはずだ!」
「貴方がそう仰るとわかっていたから事前に知らせておかなかったんでしょうね」
浩瀚は頭を抱えてから、桓堆を見た。
「顔に出ていたか?」
「いいえ、もしその話が事実だとしたら、気付いたのは州侯ぐらいじゃないんですか?」
惚けて言う桓堆に浩瀚は苦笑した。





 麦州侯が旅立って三ヶ月後、浩瀚の元に訃報が届けられた。そこには州侯以外にもこの慶で良識のあるそうそうたる人物の名が連ねられていた。これで慶の朝廷の腐敗はますます進むだろう。自分が敵の立場なら同じことを企んだだろうと思っていたのである程度の覚悟はしていたが、浩瀚は手信を握りしめ、天帝を呪っていた。
「貴方はこの慶を滅ぼすおつもりか!」
 数日後、浩瀚に会いたいという連絡を受け、城下の指示された舎館に赴いた。そこにいたのは六年前に別れた友と見知らぬ男が二人いた。
「この慶で騎獣商を開くことにしたんで挨拶をしとこうと思ってな」
六年前に別れた友は当時より数段逞しく、落ち着き払った態度で言った。
「沈み続けるこの慶で商売をするとは物好きな奴だな。わたしへの監視のつもりか?」
「まあな。それと、お前の勧誘だ。慶の官吏に嫌気がさしたら俺の処へ来いよ。他へ行ったら許さんからな。お前なら十二国を手玉に取れる黄朱になる!」
「それは買い被りだな。わたしは慶一国だけでも持て余している始末だぞ」
「そりゃぁ、お前が時代の流れに逆らっているからだ。そんなことをしてもいいこたぁないのはお前ならば承知だろうが?」
「そうかもしれないな。しかし、わたしはこの慶で誰も彼もがそんな風に諦めているのが我慢できない。足掻く必要がなくなったらお前の望みを叶えてやれる」
「気長に待ってやるよ。こいつらはお前の飼い主殿に雇われてた剛士達だ。お前に話しておきたいことがあるんだそうだ」
彼に紹介された二人は深刻な顔で頷いた。
「俺達はあんたに紹介された御仁が鳳雛だと踏んでいたんだ。道程の三分の二は驚くほど楽な道のりだったしな。実際、俺達にとってもあの人との同行は楽しいものだった。随分と好奇心の強い人だな。俺達の習慣や生活を聞いては感心したり、説教していた。あんたが黄海で何をしていたかも知りたがっていたよ」
「わたしのことを話したのか?」
「まさか、言えるわけがない。あの里から黄朱以外で生きて出てきたのはあんたぐらいなものだ。才でのあの事件がなければあんただってそうして生きてはいないはずだろう?今でもあんたが他の人間にあの里のことを話したら俺達はあんたの命と話した相手の命を貰うぜ」
「そうだったな」
「鳳雛のいる昇山は楽なもんだ。だが、俺達の中に裏切り者がいた。そいつは金で雇われ、妖魔を誘き寄せていた。それで昇山者の半数以上が命を落とした。その後の道程も酷いもんだった。同行した俺達の仲間も一人失ったしな。僅かに生き残った昇山者がやっとの思いで蓬山に辿り着いても蓬山公は病で伏せっている始末だ。あんたには気の毒だが、しばらく景王は起たないだろう。俺達はこれからその裏切り者に制裁を与えるために来た。それにあんたも事情を知りたいと思ってな」
「おい浩瀚、手を離せ!」
浩瀚は酒杯を握り潰していた。陶器の欠片が手に突き刺さり、酒と血が混じった液体が手から滴り落ちていた。浩瀚は手のひらをを開き、無表情にそれを眺めていた。
「こんな傷は直ぐに治ってしまうんだ」
冷ややかな浩瀚の声に黄朱の友人は眉を顰めた。




 麦州侯を失った浩瀚は精力的に州侯の代理と令伊の仕事をこなして行った。中でも悪徳商人や県正からきっちりと金を巻き上げる手腕は見事なものだった。今まで州侯の陰でその才が目立たなかったが、州城に詰めている官達はそんな浩瀚を悪徳商人の上前をはねる奴と陰で揶揄していた。
「今に暗殺者が隊列を組んでやってきますよ」
桓堆は浩瀚に無駄だと知りつつ忠告した。
「向こうが音を上げるまで刺客を狩り尽くしてやる」
「そんなことは不可能ですよ。その前に貴方の命が狩られてしまう。そうなったらこの麦州は敵の思うがままになってしまうんです。自棄にならないで下さいよ」
この時はまだ浩瀚は桓堆の忠告は耳に入っていなかった。
 そんなある日、和州侯が麦州を来訪した。
「随分と無茶なことをしているそうだな。以前から麦州と和州では朝廷からの暗殺者を二分するようにしていたのだ。今のままででは先に貴兄が弑虐され、次は和州が標的になってしまう。もう少し力を抜くことはできんか?」
「申し訳ありません。しかし、わたしが標的になっている間に黒幕の正体を探ることはできませんか?」
「それができたらこんなに時間を費やしてはいなかった。今まででもそれを試みたことはあったのだよ。しかし、更なる犠牲を増やしただけだった。わたしや麦州侯の家族や麦州の令伊然りだ。麦州侯が貴兄を令伊にしたのは剣や官の才能だけでなく、家族がなかったことも理由の一つだったのだ。もしも貴兄に家族があったならばどんなに剣の腕が立とうと、優れた才能があろうと彼は決して貴兄を麦州の令伊にはしなかっただろう」
浩瀚はきつく目を閉じ、かつての学友を想い出していた。まだ任官もしていない者の婚約者にまで敵は手を伸ばすような輩だった。
「わかりました。相手はわたしを弑虐できなければ他の州城にいる者も無差別に手を掛けかねないということですね。自重しましょう」
「貴兄の気持ちはわかるが、黒幕を確定できない限りは我々が生き残ることが先決なのだ。今のところはそれしか麦州と和州を救う手だてがない。朝廷の誰もが怪しいが、どう考えても一つの意志をもっているとしか考えられん。連中を束ねている者が必ずいる。その正体がわかるまで焦ってはいかん」
そう言って和州侯は帰って行った。

 そしてある夜、桓堆が危惧していたことが起こった。夜陰に紛れて、刺客が複数官邸に入り込んだ気配に目覚め、各々の寝所から剣を取って出て、浩瀚と桓堆は目配せをした。普段からこのことを恐れて身の回りの世話は通いの者だけにしていたのだが、外で見張りをしていた門兵は殺されていたに違いなかった。浩瀚は始めから利き手で確実に刺客達を切り伏せて行った。間もなく官邸の中から火の手が上がり、園庭に出ると矢が頬を掠め、刺客達が罠だと気付き、建物の中に戻った。このままでは焼け死ぬか、矢の標的になって殺されるかのどちらかしか選ぶ道はないなと思っていたが、突然獣の咆哮が響き渡り、大きな熊が出現して射手に向かって突進して行った。その獣は数多くの矢を受けながらも射手達をその爪にかけ、どうっ、とその場に倒れた。浩瀚が駆けつけて側に寄ると聞き覚えのある、気のいい男の声がした。
「そんな顔は似合いませんよ」
この時、浩瀚は何故麦州侯がこの漢を個人的な杖身として雇っていたのかを理解した。この漢の働きに見合う報酬を与えるためだったのだと。そして、半獣に対する規制が撤廃されるまで、断じて死なせたくなかったからこそ自分に託されたのだということも。
「桓堆、お前の忠告を無視して済まなかった。わたしが浅はかだった。死なないでくれ」
桓堆は薄れ行く記憶の中で失敗をして萎れている子供のような浩瀚を見たような気がした。
 翌日、桓堆が寝床で目覚めるといつもと変わらない浩瀚が付き添っていた。
「どうやってわたしを運んだんです?」
「お前が自分で人型に戻ったんだ。覚えてないのか?ここは州宰の官邸だ」
恐らく一睡もしていないだろう浩瀚が淡々と話した。
「州城の皆に州侯になってもらおう」
唐突に語りかける浩瀚に桓堆は「はあ?」とだけ言った。桓堆の看病をしながら考えていたらしい。
「そうしたらわたし一人が死んだとて、どうということもあるまい?」
州侯が亡くなってから久しぶりに浩瀚はいつもの笑顔を見せた。
 この日を境に浩瀚は自分の命をつけねらう黒幕の正体を探ることを中断した。そして、州城内の綱紀を改めることに専念することにしたのだった。





 数年後、麦州侯の代理で金波宮を訪れた帰りの堯天で浩瀚は幼い二人の子供が大勢の大人に囲まれている情景に出会った。浩瀚が訳を聞こうとその輪に入ろうとする前に四十位の男が先に飛び込んで行った。
「この子達の両親は先日妖魔に襲われて亡くなったばかりだ。その事実を理解できず、空腹で店先の果物を盗ってしまったことを大の大人が寄ってたかって攻めるとは情けないとは思わないのか!」
「しかしなぁ、そんな子供は掃いて捨てるほどいる。その子供達全てにに施しを与えられるほどこっちの生活も楽ではないんだ!同じことを繰り返させないためにも見せしめは必要だ!」
膝を折って、二人の子供の肩を抱き、その男は周囲の大人達を悲しげな表情で見上げた。
「わかった。この子達の盗ったものの代金はわたしが払おう。そしてこの子達を里家へ連れていく。不幸な子供には大人の優しさが必要なんだ。それで許してやってくれ、この通りだ」
その男が頭を下げると周囲の大人達は恥じ入り、その場を去っていった。優しくしてやりたくても生活が荒めば心も荒む。彼等とてわかっていてもどうしようもないのが今の慶の実状だった。
「まだ腹が減っているだろう?何か食べていこう」
男は子供達の手を取って歩き出すと、それを見ていた浩瀚に気付いた。
「浩瀚殿?」
自分の名を親しげに呼ばれ、浩瀚はこの男の正体を確信した。
「柴望、久しぶりだな。相変わらず人を説得するのが上手い。わたしの出る幕などなかったようだ」
「貴方に言われると自信がつきますね」
そうして二人で子供達に食事を与え、里家に連れて行った。帰りに酒楼に入り、今までの経緯を話し合うことにした。
「浩瀚殿の活躍は風の噂で聞いていましたよ。大学の同期としてわたしも鼻が高かった」
柴望の言葉に浩瀚は自嘲した。
「この十年間で三百人近くの刺客を斬った。軍人でもないわたしが自分の手でね」
両手を差し出す浩瀚に柴望は眉を顰めた。
「それがあるから世間の評価が苦しいとおっしゃる?」
「そうかもしれない。もともとわたしが麦州の令伊になったのも刺客から自分の身を守れるからという理由だった。官吏の能力を買われてのことじゃない」
「それでも剣の腕より官吏の能力の方が遙かに人の役に立っているではありませんか。それにその剣の腕がなければそれすら出来なかったのでしょう?それでいいではありませんか」
「すまない、愚痴になったな。少しばかり、人を斬ることに飽いているんだ。お前が国官を辞退した経緯は老師に聞いた。今まで何をしていたのだ?お前ならばわたしなどより民のために働けたはずだ」
「それは浩瀚殿の買い被りですよ。それに、今の朝廷で人の役に立つなんてことが出来るのでしょうか?わたしは今、上庠の教師をしています。慶の未来は子供達にかかっています。子供達に未来を託すことで某かの力になれればいいと今では思っているのですよ」
「もう官吏になる気はないのか?」
柴望はくすりと笑った。
「そんなことをしたら、蒿里山へ昇る日が遠くなってしまう」
「本音を言うとお前に手伝って欲しい。わたしの元にいるとそれこそ蒿里山へ昇る日が早まるかもしれないがな。景王が起つまで、まずは麦州だけでも立て直したい。景王が起ち、慶が元の姿を取り戻してもまだわたし達の命があったら、その時に野に下っても遅くはないだろう?」
「あなたも野に下るつもりなんですか?」
「その時になってみないとわからない。たとえ悪党とはいえ、これからも何人斬るかわからない。平和になった慶でまともな神経を持っていられるとは限らないからな」
浩瀚の真摯な視線を受け、柴望は覚悟した。浩瀚の下で官吏になるということは栄誉のためなどではなく、想像以上に過酷な状況に身を置くということに違いなかった。そうでもなければこの男が弱音を吐くなどとは信じられなかった。
「わかりました。協力しましょう」





 この時、天啓を受けた王は蓬莱にいたがそれを知るものは誰もいなかった。そして、彼が人知れず息を引き取り、次の景王が起つまでには実に二十年近くの月日が経つことになる。

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2003.

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