翠の墓標あるいは裏切りの荒野
(一)帰 郷




 慶国麦州を見下せる丘に男が二人で並べた騎獣に跨っていた。一人は陽に焼けた褐色の肌を持つ精悍な体つきの男、もう一人も体格的には変わりはなかったが、対照的に肌が白かった。
「残るのか?」
褐色の肌を持つ男が訊いた。この国に入ってから隣の友人は言葉も少なく、沈んでいた。今は何かを決意したらしく、眼にはいつも通りの意志の強い輝きが戻っていた。彼には友の返事が訊くまでもなくわかっていた。「ああ」ともう一人の男は答えた。彼の旅はここから始まった。そして、才国で得た友人と五年の歳月を掛けて再び同じ場所に戻ってきた。
「じゃあ、ここで別れるか。縁があったらまた会おう!」
褐色の肌を持つ方の男はそう言うと感傷を振り切るように騎獣の首を反対に巡らせ、早駆けでその場を立ち去った。残された男はその後ろ姿が地平線の彼方に隠れるまで見送った。
「まずは老師にご挨拶をするか」
彼はそう独白すると丘をゆっくりと下った。身内を失って旅に出た彼には、ふらりと立ち寄って迎えてくれる者はなかった。友人達の行方にも心当たりはない。会いに行けるのは唯一恩師ぐらいだった。
 朱旌の様な姿で剣を穿いていた彼だが、麦州にある松塾は有能な官吏を多く輩出していると同時に侠客も多く、彼の出で立ちは特に奇異には見られなかった。学舎へ入り、老師の所在を確認すると州城へ行っていて留守だった。久しぶりに講義を聴くことにして、回廊を渡っていると反対側から慌てて歩いてくる師の一人に会った。彼が回廊の傍らへ寄り、一礼して挨拶するとその師は破顔して両手を広げると彼の体を数回叩いた。
「おお、浩瀚か、逞しくなったじゃないか!丁度良い、手伝え」
そう言って師は浩瀚の腕を強引に取って、元来た回廊を足早に戻った。
「何をすればいいのです?」
「ちょいと講師を頼まれてくれ」
相変わらず急ぎ足で師は言った。
「三十年程度しか生きていない人間が松塾で教えられることがありましたか?」
浩瀚の言葉に師は体を揺すって笑った。
「お前さんに人の道について説いてくれとは言わんよ。心配いらん、お前さんに説いて欲しいのは歴史だ。達王の時代でいい、得意だろう?わしはこれからちょっと塾を出なければならん。塾生の一人が難儀にあっておっての」
「わたしの歴史の講義は他では通用しませんよ」
「まともな方は前回にしてある。お前さんの見方は非常に面白い。この機会に是非とも披露していってくれ。おお、着いたぞ」
浩瀚の返事を待たずに師は講堂に浩瀚を引きずり込んだ。入り口近くには大学生らしい男が立っていた。
「待たせたな、代わりの講師を連れてきた。では、後を頼んだぞ」
それだけを言って師は今度は立っていた男の腕を掴み、慌ただしく講堂を出て行った。後に残された塾生は剣を腰に穿いている浩瀚の出で立ちに不安を隠そうとはしなかった。

 歴史の講義を終え、他の師に旅の話をしていると老師が帰ってきた。老師の書房に通され、無沙汰を詫びると老師は快活に笑った。
「いい男ぶりになったの。その分じゃと剣の腕も上がっておろう。まったく、都合の良い時に現れたものじゃ」
老師は自分で納得して頷いた。
「またですか?何時から松塾は人使いが荒くなったんです?」
眉を顰めて言う浩瀚に老師は首を傾げた。
「ここに着いて早々、歴史の講師を押しつけられたのですよ」
「おお、それは助かった、礼を言わねばな。近頃は塾生の厄介事が多くての。わしや塾頭までもが駆り出されておるわ」
そう言って老師は再び快活な声を上げて笑った。
「ところで、旅は終わりにしたのかな?」
「一通り十二国を廻ってきましたからね」
「他の国はどんな案配じゃったかな?」
「この国より酷い国はありませんでしたよ。まあ、黄海よりはましかもしれませんが」
「黄海にも行っておったのか」
「はい、一年ほどいる羽目になりましたよ。よく生きて帰って来れたものだと思います」
「よいよい、それでは怖いもの無しじゃて。お前さんは官吏になる気はまだあるかの」
「この国に住むためには仕事が必要でしょう。選り好みはしませんよ」
「なになに、お前さん以外にはできんことじゃ。州侯は今、剣の腕が立ち、頭の切れる者を探しておっての。わしの知っておる塾生の中でもお前しか思い当たらぬので困っておった処だったのじゃよ」
「剣を使える塾生は大勢おりますでしょう」
「いやいや、州侯が必要としているのは大学でも五本の指に入らねば使えぬそうじゃ」
「変わった注文ですね。何をさせるつもりなんです?」
老師は快活な声を上げて笑い出した。
「興味が出てきたようじゃな?よしよし、行けばわかることじゃ」
「弓射は苦手だと言っておいて下さいよ」
「允許は貰っておるじゃろう?」
「落第すれすれですよ。官吏の中では一番下手だということになるでしょう」
老師は高らかに笑った。
「よいよい、弓射で成績を競う必要がなかったという証じゃ。州侯はお気になさるまいよ」

 州侯からの返事を待つ間、浩瀚は老師邸に滞在することになった。そして、そこで自分の友人達の行方を訊いていた。
「まったく、お前さんの友人は面白い人間がそろっておる。特に親しくはしていなかったようじゃが、柴望を覚えておるじゃろう?大学で成績を競い合っておったそうじゃの」
「奴は真面目でしたからね。わたしが敬遠されていたようです」
「そんなことはなかろう。柴望はよく大学のお前さんのことを教えてくれておった。誰も思いつかないような考え方をする面白い男じゃと、本当に頭のいい人間とはお前のことじゃと謙遜しておったものじゃ」
浩瀚はくつくつと笑った。
「頭の良さなど大して役には立ちません。本当に必要なのは人間性でしょう?奴は大学では徳ならば柴望が一番と言われていた奴です。わたしもそう思っていましたからね」
老師は「ほう」と珍しそうに眼を見開いた。浩瀚は言葉を続けた。
「弓射の允許を貰えたのは彼のお陰でしてね。友人達に教えてもらっても少しも上達しないので見限られ、一人で練習していと柴望が練習場に入ってきたのです。弓を替え、立ち位置と呼吸方法を教えてくれただけで命中率が格段に上がりました。後で聞いて知ったのですが、柴望は入学当初に弓射の允許を取っていたのであの時に練習の必要はなかったのです。つまりはわたしのために来ていたということです」
今度は老師がくつくつ笑い出した。
「いやいや、柴望は自分の慈悲とはあるものがないものに与えようとする鼻持ちならないものだが、お前さんのそれは切実な問題を抱える人間の立場に立っているものだと言っておったぞ」
浩瀚は肩を竦めて見せた。
「それは単なる育ちの違いですよ。柴望は今どうしてます?美人の婚約者と結婚して子供もいるんじゃないですか?」
老師は沈んだ顔で首を振った。
「柴望は今行方知れずじゃ。お前が旅に出たすぐ後でのことでの。お前も知っての通りあれの恋人は堯天でも評判の美人じゃったので、朝廷の上の方に目を付けられたのじゃろう。柴望の足手纏いにならぬよう彼女は自刃してしまいおった」
「莫迦な!何故、任官もしていない者を追い落す必要があるというのです!」
浩瀚は思わず叫んでいた。





 州城に呼ばれた浩瀚はまず練兵場で三人の兵士と剣の手合わせをすることになった。一人目は普通の腕前らしく、難なく勝てた。二人目は上級者らしく多少手こずったものの何とか勝てた。そして、三人目は恐ろしく腕の立つ男だった。剣技だけではなく、剣そのものが相当に重い。背はさほど大きくはなく、多少体格がいいだけの男だったが、相当腕力があり、見かけより遙かに敏捷だった。これに勝てたら軍人で食っていけるなと浩瀚は苦笑した。
 重い剣を凌いでいたが、不意打ちの左からの攻撃に思わず左手を使う羽目になり、舌打ちした。相手は余裕のある笑みを浮かべている。受けた剣の柄で突きを食らわせようとしたが、あっさりとよけられた。開き直って左で攻撃をしかけたが、悉く交わされ、最後には相手の剛力で剣を叩き落とされた。左腕がしびれて腕をさすっていると州侯が手を打ちながら近づいてきた。
「見事な腕だ。桓堆に負けたからといって落ち込むことはないぞ。この男は武技の殆どをこなす。まあ、こういったことの専門家だ。おまえはどう見た、桓堆?」
「右はまあまあですが、左はいいですね。しかもぎりぎりまで使わないということが相手の油断を誘っていい。兵士としては癖がありすぎますが、護身用の腕としては最高でしょう」
桓堆と呼ばれた男は息も切らさず、しれっと言った。彼の腕は州侯に相当信頼されているようだった。
「次は頭の程を見せてもらうぞ」
そう言われて連れてこられた堂室は位置的には令伊(さいしょう)用ではないかと浩瀚は見当をつけていたが、その主はいなかった。ここの州城は訳あって他とは変えているのかもしれなかった。
「大学開学以来の鬼才と言われていたと聞いたので書類を掻き集めておいた。なに、大したものは殆どないが、片づけねば溜まっていく一方だ。期限は決めないが、なるべく早く終わらせてくれないか?」
「わたしはそんな噂を聞いたこともありません。大方誰かと混同されているのでしょう。しかし、老師が州侯の希望にあう者はわたししかおらぬと仰せになられたからには州侯のご期待に添うよう努力するまでです」
州侯は浩瀚の殊勝な言葉にくつくつと笑った。老師は自分のことをどう説明したのかと浩瀚は溜息をついた。
「まあ、あまり気張らなくてもいい。あれだけ剣が使えればよほどの莫迦でない限り文句は言わん。ようはお前にどの程度の仕事ができるかを見たいだけだ」
州侯はそう言って笑いながら執務室を出て行った。
 書類を見て浩瀚は苦笑した。州侯は大したものはないと言ったが、それらは一般の民からの訴状だった。確かに政務には重大な影響を及ばさないが、当人にとっては切実な問題なはずだった。書類を繰っていくと急ぎではない治水工事や港の整備の案件もあった。浩瀚はそれらを脇に寄せて訴状から取りかかることにした。
 夕刻になって自分の政務を終えた州侯が顔を出した。
「随分と片づいているな」
州侯はそう言うと片づいている書類と未処理の書類を見比べて「ほう」と声を上げた。
「大学の秀才など鼻持ちならんと思っていたが、お前は随分とまともだな」
「そう仰って頂いたのは州侯が初めてです」
「変わり者と噂されていたことは自覚しているんだな。だが、これは期待以上だ。さすがに老師が一押しするだけはあるな。わたしの仕事が楽になる」
州侯の言葉は浩瀚にはこき使ってやるぞと聞こえた。
「わたしには宮仕えなどは初めてですのでお手を柔らかに願います」
「だったらここまで優秀に仕事をするべきじゃなかったな。今日からここがお前の堂室だ」
「ここは普通の州城ならば令伊の堂室でしたね。麦州ではどういう目的に使っているのですか?」
州侯は目を見開いてから楽しそうに笑った。
「麦州でも令伊用だぞ。お前、老師から何も聞いていないのか?」
「行けばわかると申されただけです。しかし、官吏の経験のない者をいきなり令伊にするなどとは正気ですか?」
浩瀚は憮然と答え、問い返した。
「麦州の令伊は一月前に弑虐されて空位のままだ。断るつもりならば今のうちだぞ」
州侯は厳しい視線を浩瀚に投げかけた。浩瀚は不適に笑って返した。
「剣の腕で令伊になるのは後にも先にもわたしくらいでしょうね。せいぜいその相手よりも長生きして見せましょう」
「お前の父親は朝廷の官吏だったそうだな。不正を糾弾しすぎて弑虐されたと聞いた。お前が弓射よりも剣を重視しているのはそのせいか?」
「わたしが物心のつく前のことなど知りませんよ。たまたま弓より剣の方が性に合っていたということと、歳の離れた兄が得意だったのでわたしも仕込まれただけです。兄はよくわたしの剣は邪道だと笑っていました」
「お前の兄も優秀な男だったそうだな。幼かったお前を養うためと母親を助けるために少学を辞めたとか。お前が大学を卒業する時にその二人を亡くし、官吏にならずに旅に出たと聞いた。普通ならばその兄の志を果たすために官吏になるものじゃないのか?」
「わたしが薄情だとお思いになるのでしたらそうなのでしょう。わたしはある人のために官吏になろうとしていましたが、大学を卒業する前にその人は亡くなりました。おまけに恩を返すべき家族も失った。何のためにこの国で生きていくのか、わからなくなったので旅に出てみただけです。この国以外に生きていこうと思える国があるかもしれないと思ったのかも知れません」
「今ならばこの国のために生きる気があるとでも?」
「さあどうでしょう。ただ、この国をこのままにはしておきたくないと思うだけです」
「父親の仇を伐とうと思ったことはないのか?」
「先ほども申し上げた通り、物心がつく前のことなので父の死よりもそれを嘆く母と兄の方が心配でした。二人が望んでいたら父の仇を討とうと考えたかもしれませんが、二人ともわたしにそれを望んだことはありません。ですからわたしが考える必要のないことなのです。一度、兄に父の仇を討たなくていいのかと聞いたことがありますが、兄は最大の復讐は相手の仕打ちを忘れ、自分が幸せになることだと申しておりました。そして、それは大人には難しいが、子供にとっては容易いことだからわたしから先に幸せになり、母と自分にそれがどんなに大切なことかを教えてほしいと言ったのです」
「お前の父親を死に追いやった相手の名を知りたくはないか?」
「御遠慮させて頂きます。その名を聞いて心に留めておくのも悔しいですからね。知らない方がいいでしょう」
「父親の仇を討つために張り切ってもらおうという思惑は外れたが、冷静な判断をできる奴だと安心した。ここ麦州は慶の交易の要所だから専横を布きたがっている輩も多い。特に朝廷が腐敗している今の慶では反骨の気風がある麦州は目障りな存在だ。だからわたしを弑虐しようと躍起になる。そしてそれが叶わねば令伊に手を伸ばしてくる始末だ。しかし、お前の若さが暫く敵の目を欺くだろう。その間に我々の命をねらう奴を特定せねばなるまいな」
先ほどまでとはうって変わって州侯は深刻に話していた。
「心当たりはあるのですか?」
「朝廷にいると踏んでいるんだが、心当たりが多すぎて見当がつかん」
「では、わたしはできるだけ目立たないように振る舞えばよいわけですね?実は州侯にこき使われつつ、端からは楽をしているように見せかけて・・・」
「その通りだ」
州侯はくつくつと笑った。





 この年、蓬山に慶国悲願の卵果が生った。浩瀚はこれから三十数年にも渡って千人にも及ぶ刺客を斬り捨てることになるなどとは、この時には想像もつかなかった。

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2003.

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