散る時を知る 3

雁国貞州芳陵の庠序にて



 浩瀚は詳細な視察は麾下に指示をしておき、延台輔の紹介状を持って芳陵の庠序に住む壁落人を訪ねた。
「一国の冢宰の訪問を受けられるとは光栄です。本来ならば十分な歓迎を致したいところなのですが、一私人として扱って欲しいということでしたので、伏礼をせずに失礼します」
そう言って拱手をする壁落人に浩瀚も拱手を返した。
「我が国では伏礼を廃止しているのでお気遣いには及びません。それに、わたしは壁老師に教えを請いに参りました身でもあるので、官名ではなく浩瀚とお呼び下さい。こちらはわが主がお世話になったお礼です。一国の王のものにしてはささやかではありますが、お受け取り下さい」
浩瀚の言葉に共の者が絹で包まれた箱を差し出すと、壁落人は戸惑いつつも下男を呼んで、客房に運ぶように言い、浩瀚を案内した。
「わたしは彼女が王だからお助けしたわけではありません。他の海客にもしたであろう手助けをしたに過ぎないのです」
「それは存じておりますが、これは一介の慶国の民としての感謝であり、はからずも王と関わったが為におかけするであろう迷惑のお詫びです。わたしのような人間が突然お邪魔して、老師の専門外の教えを請おうなどという不躾もその一つです」
浩瀚のこの言葉に壁落人は笑った。
「そういうことであれば遠慮無くお受けします。そして、わたしに出来る限りのお手伝いをさせていただきましょう。景王は良い家臣に巡り会えたようですね」

 彼が寝起きする廂房の客房に辿り着くと、慣れた手つきで二人分の茶を入れ、卓子を挟んで相対して座った。
「時間が惜しいので単刀直入に申し上げますが、倭には音だけを現す文字があり、これだけでもある程度の意味を伝えられます。倭の辞書を手に入れられた浩瀚殿が倭の文字を覚えることは海客が常世の文字を覚えることよりも容易いでしょう」
「では、お教えいただけるのですね」
浩瀚は卓子に手を置き、身を乗り出した。
「はい。ですがその前にこちらでは役に立たない文字を覚えようと思い経った理由をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「やはり不思議ですか。そうですね、一言で言えば知識欲からということになるのでしょう。主上はとても興味深いお考えをお持ちです。わたしにはその主上を育んだ倭の国について正確な知識が欲しいと思っていました。新しい知識を得たいと心躍るのはここ数十年なかったことです。実は壁老師に倭とこちらの文字を対比できる辞書を編纂できる海客をご紹介いただけないかと考えていたのですが、いかがでしょう?むろん、相応の謝礼は致します」
「それはありがたいことです。必要だとはわかっていても自分が覚えてしまえば、辞書は必要はなくなってしまうものですし、海客の絶対数が少ないので作ろうと考える者もいません。胎果の王のためならば相応のものも作れますし、一国の冢宰もお望みならば作る甲斐もあるというものです。そしてそれは今後の海客のためにもなるでしょう。是非協力をさせてください」
「壁老師は海客の研究もされておいでだとか、これからも何かとご協力をお願いするかとは思いますが、よろしくお願いします。本当は壁老師を我が朝廷にお迎えしたいほどなのですが、一度断られているので今は諦めます。お心が変わられたらいつでもお越し下さい」
「景王はお若い。異国の言葉でもすぐに覚えてしまわれることでしょう。そうなればわたしなど必要なくなります。その間ならばわたしの寿命が尽きるまでご協力する程度で間に合うことです。海客に関する研究成果も浩瀚殿ならば後の世にも役立ててくれるでしょう。こちらこそ、よろしくお願いします」
 壁落人はあらかじめ用意しておいたひらがなと、その音に近い漢字を書いた紙で浩瀚にひらがなを教え始めた。それにカタカナと数字も合わせ、いくつかの漢字の書き下し方を一通り教授すると「桜の花を見ながら酒でもいかがですか」と誘った。





「浩瀚殿はいい時にお越しになられました」
そう言って壁落人は庭の桜の傍の四阿に卓子と酒肴を用意させた。日は傾きかけていたが、風もなく穏やかで、静かに桜の花びらが舞い降りていた。
「海客の方々は桜が好きだと聞きましたが、理由を教えていただけますか?」
壁落人は二つの酒杯に酒を注ぐと、桜を見上げて遠くを見つめた。
「そうですね。故郷に惜しむものなどない身でも、桜を見ると自分が日本人であったのだと思えますよ。日本人は散る桜に出会いと別れ、生と死、時の移り変わりを見ます。桜の咲く季節は入学や卒業や仕事の年度始めと重なることもありますが、南や北は時期が外れていますから、それだけでは語れないでしょう」
「倭では散る花は桜でなくてはならないのですね?」
壁落人は頷いて酒杯を持ち上げ口をつけた。
「古来倭では漢の文化が高尚とされ、かの国では最高の花は夜の梅とされていました。倭国が大国に倣うのではなく自立した国となるために、倭国では夜明けの桜が最高であると桜を愛でるようになりました。倭国の桜は散り際を愛するあまり人の手によって改良された桜が全国に広まっています。その木は葉よりも花が先に咲き、花の数も多く、同じ土地に咲く桜は一斉に散るのです」
「それは見事でしょうね」
「ええ、そしてそれを人間にも求めた時代もあったのです」
浩瀚は眉をひそめ、酒杯を口から離した。
「倭では主君のため、国のために生きることが美徳とされたのです。そして、その思想は武士道に遡ります」
「ぶしとは何です?」
「ああ、こちらの言葉に訳されませんでしたか」
壁落人は酒に指を浸し、卓子の上に”武士”と書いた。
「倭ではかつて武人が国を治め、その主君に仕える官吏も武を修めていました。その時代では倭で最も優れているものとして、花は桜木人は武士と謳ったのです。そして武士の制度が終わっても、死を覚悟して生きる武士の精神は残りました」
「その武士が見事に散る桜を自分達に例えたのですか?」
壁落人は首を横に振った。
「武士が国政に台頭した時代に改良された桜はまだありませんでした。改良された桜は見事に咲いて散りますが、花の寿命は従来種の半分です」
「なるほど、種類が違うのに散り際だけ同じくあろうとするのは無理がありますね」
「桜の花は風が吹こうが雨が降ろうが散ることはありません。そして、時期が来れば風がなくてもこのように自ら散ります」
壁落人が桜を見上げ、花びらを受け止めるように片手を軽く持ち上げると、浩瀚も桜を見上げた。





「散る時を知る花・・・」
浩瀚の呟きに壁落人は笑みを浮かべた。
「それが武士に愛された所以です」
浩瀚は視線を酒杯に落としてくつりと笑った。
「死ぬことも老いることもない仙でも、いつかは散らなければならい。それはやはり国のためであるべきなのでしょう。桜の話を聞けただけでもここへ来た甲斐があります。主上の潔さの一端を知ることができました」
「武士道は国を超えてもわかる人にはわかるものです。きっと貴方の中にも武士道に近い精神があったのでしょう」
壁落人は酒の入った陶器を持ち上げると浩瀚に差し向けた。


This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2006.
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