恋 文 1


 朝議が終わって陽子は足早に園林に向かっていた。その後を景麒が追っていた。
「主上!どちらへ向かっておいでか?」
「付いてくるな!」
陽子のこの言葉に景麒の足が止まった。
『奏上書に御璽を頂けずに、仕事が滞っていて困っております』
朝議である官が暗に陽子が未だ文字を読めないのかという避難を込めた言葉に同調して他の官達も陽子に視線を向けてきた。陽子は今無性に自分が不甲斐なくて居たたまれなかった。

 一方、王と台輔が退出した後で六官の長である冢宰の浩瀚は他の出席者の退出を許さなかった。
「諸兄等は何か勘違いをしてはいないか?朝廷の官とは王を補佐するためにあるのであって、王を非難する立場にはないのだということがまだわからないのか!」
浩瀚は手にしていた書類を床に叩き付け、冷ややかな眼で列席者を見渡した。温厚篤実な麦州侯と称えられ、激務をそつなくこなしてなお、常に涼しい顔をしている冢宰の逆鱗に触れ、列席者は一様に言葉を失った。もちろん、列席者の中にも良識派はいたが、彼等にとっても浩瀚のこの態度は予想外で、次の言葉に興味を引かれていた。
「十二国の王やその歴代の王には様々な王が御位にお就きだが、官吏の能力に優れた王はそう多くはない。舎館の亭主だった王もいれば農民だった王も、胎果や御歳十二歳の王もいる。胎果で十六歳の主上を戴く我々が王を補佐するためには何が必要か考えたことはないのか?この世界の常識を知らない者が王として在ることがおかしいか?文字が読めない王が国のためにならないとでも?それとも成人していないことが不安か?そんなことは我々が変わって差し上げられる程度のことではないか!主上に御璽を早く押してもらいたければ書類をもっとわかりやすく作ればいいだけのことだ。諸兄等の奏上書は徒に煩雑過ぎてわたしでも頭が痛くなる。今後、主上に文字が読めないことを非難することがあれば、金波宮の公式文書は全て蓬莱の文字にするぞ!主上お一人か、官全員が新しい文字を学ばなければならないとしたら、主上の努力の有り難みが理解できるだろう。諸兄等の熟考を期待している。以上を持って本日の朝議を解散する」
浩瀚の言葉に列席者は粛々と退出していった。傍らには禁軍左将軍の青将軍が近づいてきた。
「思い切ったことを言ったものですね。わたしとしては誰にも主上を非難して欲しくはないですね。今更新しい文字を覚えろと言われても自信はありませんから。その点、主上はお若いだけあって物覚えはいいんですけどね」
「それがわからない者が多過ぎて頭が痛くなる」
床に叩き付けた書類を拾いながら浩瀚が言った。その一部を拾い上げ、近づいて来た官がいた。
「先ほどはわたし共の言いたいことを言って頂き、感謝致します。府吏の中には冢宰と同じことを考えている者も多くいますが、わかりやすい書類を作っても上の者が納得しないのです。これで彼等の努力も報われるでしょう」
「ああ、貴兄の処の書類は見易いな。主上もこんな書類ばかりだったらいいのにと喜んでおいでだった」
「恐縮です」
言ってこの官は浩瀚に書類を渡した。
「そうだ、政務とは関係ないのだが、貴兄に頼みたいことがあるのだが」
「わたしにできることであれば」
「主上の御為になることだ。是非頼まれてくれないか?」

 浩瀚は王の執務室へ向かったが、思った通り、その主はいなかった。そして、今度は瑛州侯の執務室である広徳殿へ向かった。いないことを願いつつも、いることを確信して。
「なぜ、主上の後を追われないのです?」
「主上がついてくるなと申されたのです」
子供のような返答に浩瀚は溜息をついた。
「台輔には王が男であれ女であれ、若かろうが、歳を経ていようがかまわないのでしょうが、人間の男は違います。御歳十六の少女に沈んでいられればこちらの気も滅入る。貴方が行かないのであればわたしが参ります。主上はどちらにおられます?」

 最近の主上が考え事をするときによく来るという場所は人に忘れ去られたような寂しい場所だった。そして、人の気配を感じて振り向く主に浩瀚は胸が苦しくなった。本来ならば彼女には必要のない能力だった。
「悪かったな。迎えに来てくれたのか?」
申し訳なさそうに言う陽子に浩瀚は膝をつき、叩頭した。
「伏礼は廃止したはずだぞ!」
陽子の碧の眼に光が甦った。
「自然に頭の下がる場合には誰にも止められるものではありません。この度の官の無礼をお許し頂きたく御前に参りました。わたしの管理が行き届かず、主上にご不快な思いをさせてしまったことをお詫び申し上げます。今後同じ様なことは言わせません」
「事実に一々腹を立てても始まらないだろう。お前もいいから、いい加減に顔を上げろ」
「いいえ、今回のことは主上がお気になさることではございません。むしろ、主上への理解を求めることを怠った官へお怒りになってもよろしいのです。わざわざ蓬莱からお運び頂いた王に対して我々を理解してもらおうという努力が少なく情けなくはありますが、主上にはどうかこの国をお見捨てなきようお願い申し上げます」
「わかった。許すから顔を上げろ。落ち込むのも止める。それでいいんだろう?」
「ありがとうございます」
浩瀚はようやく立ち上がって、官服に張り付いた枯れ草を払った。
「二度と同じことを言わせないと言ったが、何をしたんだ?」
「金波宮の公式文書を蓬莱の文字にすると脅しておきました」
陽子はくつくつと笑った
「全く、頼もしい冢宰だな。お前はわたしが字を読めないことに苛立つことはないのか?」
「王が玉座にいないことに比べれば大したことではありません。王がいなければそれこそ我々の努力は砂上の楼閣を造っているようなものなのです。主上が長く玉座に在ればいやでもこちらの文字もお読みになられ、この国のことをよくお知りになることもできます。どうか焦らないで下さい」
「お前は人を乗せるのが上手いな。でも、気分はいいから乗せられてやるよ」
「恐れ入ります。それとこれを、よろしければお読みいただきたいのですが・・・」
浩瀚は懐から手信を取り出し、陽子に差し出した。政務で使われる紙とは異なり、どこか雅やかなその手信に陽子は首を傾げてから受け取った。
「主上が以前、興味があると申されていたらぶれたあです」
「えっ?だけどあの時は・・・」
「ええ、ですから台輔や主上の親しい者に読んでもらってもかまわないような他愛のないものです。まあ、主上の文字を読む練習、とでも思って下さい」
「そうなのか?でもうれしいな。生まれて初めてのラブレターだ。今読んでもいいのか?」
「かまいませんが、わたしはこれで失礼させて頂きます」
「ああ、仕事が溜まっているからな。わたしが文字を読めないせいで」
陽子は笑って言った。
「主上が文字を読めるようになっても仕事は減らないでしょうね」
次々と新しいことを思いつく陽子に対して親しみを込めて浩瀚は言い返した。
 王とはいえ、まだ十六なのだから恋をしてもかまわないのだと言った浩瀚に陽子は景麒が嫌がるだろうからそれは考えないと答えた。もともと関心も薄かったから不便は感じないと。ただ、ラブレターをもらってみたいとか、デートをしてみたいとか、それからファーストキスなんかにも人並みに関心はあったけどね、と言った陽子に浩瀚は真面目にそれはなんですかと質問していた。
 陽子は浩瀚から渡された手信を開いた。一枚目は字面だけを眺め、二枚目を眼にしたとき、思わず涙が出た。

 浩瀚が冢宰府へ戻る途中で景台輔が険しい顔をして立っていた。
「貴方は主上を一人の女性として見ておいでか?」
「美しい女王を戴いていれば、その姿に恋うる官がいるのも当然でしょう。わたし一人では足りないくらいだとはお思いになりませんか?」
笑みを浮かべて浩瀚は答えた。
「あなたは予王のことを忘れたのですか?」
「今の主上が予王のようになるとお思いですか?それは貴方のために恋はしないと言っているあの方に失礼でしょう」
景台輔は眼を見開いた。
「それは、どういうことです?」
「主上に思いをよせる男が列をなしても貴方が嫌がる限り主上は誰も好きにならないということです。ご安心されましたか?」
「貴方はそれを怒っておられるようだ」
浩瀚は頭を抱えた。
「わたしは今、麒麟と人間の雄は違う生き物だと実感しましたよ」
景台輔はまだ首を傾げていた。
「他の男が主上に思いを寄せることがご不快ならば、台輔が主上を大事になさって下さい。誰が見てもわかるようにです。それだけで諦める男は多いのです。上手く言葉に出来ないのであれば手信になさるとよろしいでしょう」
浩瀚はそう言うと一礼して台輔の前を辞した。

「浩瀚から恋文をもらったんだ。お前も読むか?」
「そのようなものをわたしが読んでも良いのですか?」
「当の本人が景麒ならいいって言っているんだ」
景麒は陽子から受け取った手信を読んだ。それは陽子がその名の通り、慶にとって長い間待ち侘びた太陽であること。長い闇に慣れたものにとってその輝きが耐えられないこともあるのだということ。しかし、確実に人々に希望の光を照らし続ける貴方を恋うる人間もいるのだという内容だった。そして、二枚目を眼にした時、景麒は思わず呻いた。
「な、すごいだろう?」
「何です、これは?」
「蓬莱の文字だよ。浩瀚は一枚目はこちらの文字で、二枚目は向こうの文字で書いてくれているんだ。これでこちらの文字がずっと勉強しやすくなる」
「まったく、慶で一番忙しい人間がこんなことをする暇があるなんて信じられませんね」
「浩瀚は蓬莱の話を喜んで聞いてくれるぞ。新しいことを覚えるのが趣味だと言っていた」
景麒は片眉を上げた。
「主上は冢宰に特別な感情をお持ちか?」
陽子はくつくつと笑った。
「それはわたしが浩瀚に恋をしているのかということか?それはないから安心しろ。浩瀚は他の官とは違ってわたしの考えに溜息をつかないし、わたしの理解できないことは、わかりやすく説明してくれるから頼りにはしているけどね。大体、浩瀚にとってわたしは女の範疇には入らないと思うがな。浩瀚にはもっと大人で聡明な女性が似合うとは思わないか?」
「さあ、わたしにはわかりません」
「男とは女の体型は起伏の激しい方が好ましいものではないのか?」
「わたしは人間の雄とは異なるようなので理解できかねます」
景麒は憮然と答えた。
「何だそれは?」
「冢宰に言われたのです」
「それは、浩瀚が景麒と男同士の話をしようとして通じなかったってことか?」
陽子は再びくつくつと笑った。
「そういうことなのでしょうか?」
「次の機会にはわたしが通訳してやろうか?」
景麒は顎に指を当て、首をかしげた。
「ですが、きっと主上にもわからないと思いますよ」

This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2002.

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