paradox 1予青六年、晩秋。 華やかな雰囲気が、その建物を包んでいた。 せわしげに廊下を走る店子たち、運ばれていく料理に酒。漏れ聞こえるのは、この界隈で最も上手い部類に入れてよいだろう奏者による音楽。 そこへ、店の男が一抱えの程の甕を持って現れて、声を張り上げた。 「こちらへの振る舞い物だ」 酒だ、と歓声が上がる。 浩瀚は、席を離れて若い店子をつかまえると、尋ねた。 「この時節にどこのお大尽が、こんなことを?」 店子はわずかに顔をしかめたが、すいと奥を見た。 「ああ、あちらの部屋ですよ。あちらには・・・」 それを聞いて、ありえないと浩瀚は思った。 奥の部屋、そこには女がいる。 ざわめきがして、見ると、幾人かの店子がさっとよけて道を作る。 まず、道の向こうから二人の先立ちがあって、その女が現れた。 薄絹の 服のみ売り払っただけでも、そこいらの貧乏人が家族で十日は食えると浩瀚は値踏みした。 後ろに同行する男たち、これも、この辺りの者と比べると随分と立派な格好をしている。 (この女、何者だ?) 女が、ちらりと視線をよこした。 見つめていればこそ、目が合った。 若い。 思う間もなく、美しい横顔を向け、女は通り過ぎた。 ふっと癖のある香りが流れて、浩瀚は記憶をたどった。 「これは、 女が車に乗り、去るのを横目に席へ戻ると、友人である男が杯を空けていた。 「この酒・・・」 「ああ、これな。今の女がよこした物だそうだ。」 奥からはまだ、にぎやかに酒盛りを続けている雰囲気が伝わってくる。 「強い酒だ。どこかで飲んだことがあったような気もするが」 言いながら、男は杯に酒を注いだ。 その杯を手に取ると、浩瀚は匂いを嗅ぎ、軽く含む。 「私はない。似たようなものなら、あるが」 そして残りをぐっと飲み下した。 「似たような?」 「ずっと癖が強く、香りも、色も濃い。糖蜜酒だ」 「言われてみればそうだな。すると、奏か」 糖蜜酒は奏が名高い。 その薫り高さは夏の花にも、果実にもたとえられる。 奏の糖蜜酒といえば種類も生産量も多く、また割合に安い酒であるから――種々ある中にはとても安いなどと言えない物もあるが、それは一部であるから今は除くとして――、国を問わず取引されている酒でもある。 「これは奏の酒なのか。」 「多分違うだろう」 「そんな、あっさり」 言ってくれるじゃないか、と男は肩をすくめた。 樽詰めされた糖蜜酒は、奏の港で貨物船の船底いっぱいに積まれ、北上してくる。 しかし近頃では、慶は多くの船から素通りの憂き目にあっていた。慶の国情が思わしくないと見て、巧で止まるか、雁へ行くか、がほとんどだったからだ。 「では、どこの酒だ。」 「どこのものだろうな・・・」 考え込む風の浩瀚を見て、男はあきれた。 「言う割に、見当も付いてなかったのか。・・・って、おい、どこへ行くんだ?」 立ち上がった浩瀚が、懐から 「呼ばれていたのを思い出した。行かなければ、どんな目に遭うか分からん」 「これが、しばらくぶりに会った友人に対してする仕打ちかよ?」 納得行かないと顔をしかめた男であったが、ふと、ひらめいて、にやりと笑った。 「女か」 さあな、とだけ言って、浩瀚は酒場を後にした。 浩瀚は、馬を駆った。 呼ばれているのは、ここから馬で半刻足らずの場所にある北韋の茶楼。『内密に参られるよう』と文を届けてきた相手、それが何者か、実際、浩瀚は知らなかった。女だという話だが、信じられるものか、と思っていた。 署名は、花麗。 その姓名を舒栄、・・・先王、舒覚の妹。偽王を名乗って今征州にいる、ということになっている。 いや、「舒栄」が女であることは間違いない。だが、仮にも偽王を名乗る本人が待っているとは考えにくい。 友人には、「行かなければどんな目に遭うか分からない」と言ったが、行って巻き込まれる厄介の方がよほど危険だ、と浩瀚は思っていた。だから、つい先程まではすっぽかすつもりでいたのだ。 どんな後援者があろうとも、所詮は偽王である。正統な王の前には何の力もない。予王は麒麟を残した。遠からず新王は選定される。 しかし、気が変わった。 浩瀚は整備されている道を選んで、馬を走らせた。 馬から下りた浩瀚に、茶楼の者が立ちふさがるように声を掛けてきた。 「今日は、あらかじめ招待された方しか入れぬように申し付けられております。何か、証明するものをお持ちでしょうか?」 浩瀚は、舒栄からの文を懐から取り出した。 「これを」 「・・・ここでお待ちください」 男は、しばらく戻って来るまい。 馬の鬣をなで、浩瀚は息をついた。 慶の全土を覆っているすさんだ空気が、ここはわずかながらも薄いように感じられる。 他の地域より幾分落ち着いた雰囲気があるのは、北韋が黄領であるせいだろうか。 それでも、以前に比べると、どうしても人々の様子は荒れているし、すでにその気力を欠いて、 (白湯と変わらないような粥さえ、口にできない者もいる) 慶は、ここ数代に渡って長命な王がなかった。今、また王が斃れたこの国に、食うための穀物を国産だけでまかなえた時代を知っている民はいない。 奏からの米、雁からの麦・・・港を抱え、首都州瑛州と隣接する麦州は、それらを扱う商人が多く拠点を置く地でもある。穀類の需要は増えこそすれ、減ることはないのに、長引く混乱によって慶国の経済力は落ちていている。乱れがちな価格の安定に、浩瀚は腐心しなくてはならなかった。 「お待たせしました」 声のしたほうを見ると、さっきの男が戻ってきていた。 一人の少年を連れていて、案内はこの少年がするという。 馬を預け、浩瀚は、茶楼ではなく、隣接する宿へ案内された。 少年はどんどん奥へと進んでいく。 たどり着いたのは、建物の二階。 庭に面した房の、さらに奥、一番の上座に一人の女が座っている。 女は、驚きに手にした扇子を揺らした。 浩瀚もまた驚いて、呟きが口を突いた。 「あのときの」 そこにいたのは、酒場で見た若い女。 目を細め、女は笑った。 「また、お会いしましたね。・・・お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」 扇子を置いて、女は小卓の向かいを指す。 浩瀚が座るのを確認して微笑んだ女に、おまえ、と声を掛けられて、年若い胥は一礼して下がる。 「不思議なこと。」 ぱた、と音を立てて扇子を弄び、娘は口を開いた。 「先ほどお会いしたばかりのあなたに、またお会いするとは」 「本当に不思議ですね。まさか貴女が花麗殿だとは思いませんでしたよ」 しかし、それは嘘だった。 本人が待ち受けていたことは予想外であったが、この女が舒栄ではないかと思ったから、浩瀚はやってきた。 奏からの船の減少と入れ替わるように、最近では巧からの穀物の輸入が増えてきていた。浩瀚は、価格上昇に伴う利益を見込んでのことだろうと思っていたのだが、ここ数ヶ月、征州に向かう船の流れがあることに気付いた。 行き届いた港の整備状況に、何より穀物商人たちの所在。それが、他国の船が取引に麦州の港を使う理由である。そして、距離の差は些細であるにせよ、妖魔が増えつつある慶国沿岸、無駄な危険は冒したくないのが人情というもの。巧に最も近い楊州で引き返しているというならまだしも、雁寄りの征州への荷の流れは、浩瀚に違和感を与えていた。 だから気になったのだ。 偽王からの招請状と、糖蜜酒とともに現れた女・・・ 糖蜜酒。 焼け付く太陽と、強烈な雨が生む南国の酒。 堯天山を望むこの土地と、あの酒は相容れない。 そうするうち、白い蓋碗二つと湯を満たした焼き物の薬缶を持って戻ってきた。 少年は、茶缶から茶杓で茶葉をすくい、 見たところ、まだ水気の多い緑茶だ。 「恐縮です。随分良い茶をお出しいただいて」 娘は、微妙な笑みとともに首をかしげた。 団茶は、年を経れば経るほど価値を増すが、緑茶は新茶こそ最上。 旬を過ぎた緑茶は一気に価値を下げるので、余剰が出ないように生産され、特に団茶を作る地域でそれは顕著である。団茶は、緑茶を押し固めて作るものだからだ。 浩瀚は、碗に伸ばされた娘の手を見る。 つやの良い象牙色の肌は、力仕事をしているようではない。慶にいる同じ年頃の娘はみな痩せて骨ばった手をしているのに、この手は食べるに困ったことはなさそうだった。 今の慶には女が少ない。ことに、若く健康で、美しい女は。そうであれば、腹を括りさえすれば身の一つや二つ、いくらでも養える。そうでなくとも、自分の口を自分で養えると思う者、土地に未練の薄い者は早々に見切りをつけたし、他国で生活ができるほどの金があるものはとっとと逃げ出した。 「・・・どうぞ?」 娘は血色の良い頬で笑いかける。 これ以上注視し続けるのはさすがにためらわれて、浩瀚は碗を口に寄せた。 浩瀚が碗を置くのを見ると、胥は心得たように歩み寄り、湯を継ぎ足す。 「本当に、良い茶のようです」 それを聞いて一口、さらに二口目を飲んで、娘は碗の縁から唇を離した。 「秋の新茶ですわ。伝手があったので、運良く手に入れることができたのです」 「新茶ですか・・・近頃では、滅多に聞かなくなってしまった」 慶では、茶は古くから良く飲まれてきた。南部には国外にも名の知れるほどの産地を抱え、中部でも、地元で消費する分くらいは作られていたものだった。しかし、天候は不順、作物の出来は最悪ときている今、新茶を出すのは、なまじな団茶を出すよりずっと困難なはずである。 「・・・不思議ですか」 静かな声と表情は、品位を感じさせた。 とても、天意に背いて王位を得ようと企む者のようには見えない。 浩瀚は小さく頷いた。 「正直に言えば、不思議です。あなたのようなお若い方が、どうしたらこのようなもてなしを用意できるのか」 「仰るとおり、わたくし自身の金でしていることではありません・・・」 女は碗に視線を落とし、そっと置く。 「わたくしの父は、割に大きな商いをしておりました。衣類などを」 「では、それで」 碗を取り上げ、ゆっくりと最後の一口を含み、飲み込むと、長い息を吐いた。 「私と姉は、父を手伝って、店に立ったものです。私のほうが、辣腕と思われておりましたよ。店子をきりきり働かせて、利益を上げて」 「お父上は、あなたを誇りに思ったでしょう」 「ええ。仕事をしているのかいないのか、分からない姉に任すのは心許ない。私を跡継ぎにと、常々言っておりました。」 「ほう?すると姉上は怠け癖のある人だったのですか」 「まさか!」 娘は、ふふ、と可笑しそうに笑った。 「真面目さで言えば、姉はよほどきっちりした人で」 「なのに、仕事をしているか分からないとは。奇妙な話ですね。」 「店を離れる時間が私よりも長かったから、そう見られたのでしょう。たびたび、裏で店子たちの愚痴を聞いていました。何でこんな事をしなくてはならないのか、あのお嬢さんはどうにかならないのか、とね」 「あなたの悪口を?・・・これは失礼」 「そのとおりですもの、構いませんわ。店子から、私の悪口を聞いては慰めるのが、姉の仕事のようなものでした。」 「・・・怠けているように、見えるかもしれませんね」 「少なくとも、父はそう見ていました。」 あ、と呟くと、娘はわずかに俯いて苦笑した。 「いいえ、私も。あの頃は幼くて・・・店子を動かす私に、店子の愚痴を聞く姉。姉のしていたことは、店の利益を直接に上げませんから」 そう言って、傾いてきた陽の差す階下の庭に目をやる。 「直接、とは」 娘は、庭に視線を向けたまま、懐かしそうに微笑んだ。 「そう、間接に店のためになっていました。今思えば、そうでした。・・・あら」 胥の持ち上げた薬缶が、ちゃぽんと軽い音を立てていた。 「もう空になってしまいましたね?・・・湯を持ってきてちょうだい。茶も、新しいものに取り替えて」 朗らかに言うのを、手を軽く上げ浩瀚は続きを遮った。 「あなたさえよければ、お聞きしたいことがあるのですが」 「どのようなことでしょう」 「昼にお会いした、酒場でのことです」 女の穏やかな微笑みに、厳しさのようなものが翳った。 「茶より、酒のほうが良うございましたか」 「そういうわけでは。実に旨い茶を飲むことができて、幸せな気分を味わいました」 「いえ、よろしいんですのよ。酒をお持ちしましょう。・・・良い物がございますわ」 今度は、 女の、お願い、という言葉とともに、浩瀚へ杯が出される。 「ありがとうございます」 言うと、香りを嗅ぎ、杯を空けた。 「いかがです?」 「昼頂いたものと同じですね」 きらり、と娘の瞳が光った。 「ええ、左様です。」 「香りが良いですね。どちらかというと軽いような。そこが飲みやすいのかもしれないが」 「あら」 斜に視線を送って、娘は笑う。 「飲み易いのはお嫌いかしら」 「美味しいですよ。そう、好き嫌いではないのです。癖が強い方が私は好みだというだけで。飲みつけているのが、奏の酒だからなのかもしれません」 「よくお分かりですね・・・これが奏の酒でないと、お分かりになるのね」 「そのような気がした程度です。やはりそうだったのですか?」 「巧のものです。これは」 「それは、珍しい」 それきり娘は無言になり、自分の杯を傾けた。 そしてやおら振り向くと、後ろに控えていた胥を手招きし、耳打ちした。 頷いた胥は、女の前にあった酒器を手に浩瀚の横にやってくる。 「こちらも、いかがですか」 「頂きましょう」 注がれた酒は、先ほどと何か異なるようには見えなかったけれども、浩瀚はとりあえず含んでみた。 「・・・これは」 「そうです。先にお勧めしたのとは、違いますのよ」 「甘いが、荒い感じがするというか・・・これは惜しい。あと十年寝かせたら、もっと良い酒になりそうだ」 「奇遇ですわ。私もそう思います。何というのかしら、私には懐かしい味なのですけれど」 「懐かしいとは。このような酒を、以前からたびたび?」 「ええ」 「あなたも充分に癖の強い酒がお好きと見える」 すっと、女は立ち上がった。 それを合図に店の者がいなくなる。 「これを見て、どう思われます」 戻った女が投げ出したのは、五枚のごわごわとした紙。 丸く型が付き、何事か書き付けられている。 「読み上げて下さいな」 一番上の紙を、浩瀚は取った。 「・・・予青元年製」 他の紙に書かれているのも、同じだった。 ただし、元年から五年まで、一年毎に記されていることだけが違った。 「父は大きく商いをやっておりました。だから慶には各地に知り合いがありましてね。その知り合いの一人から譲ってもらっていた酒、慶の南部の何某とかいう郷長が、酔狂で作らせていた・・・。糖蜜酒でしたわ」 浩瀚は女の顔を見た。 これらは甕を封じていたのだろう。五枚ある・・・五枚しかない紙。 この紙が以後、増えることは決してない。 「あなたはこの五枚を見て、どう思われます?」 挑みかかるように見下す視線。 製造年数はそのまま、予王が、実質君臨していた年数に等しい。 「私は何も、糖蜜酒が好きだった訳ではありませんのよ。巧の酒を飲んで、この酒が思い浮かんだ、それだけのこと。それを、どう勘違いしたか、私がこれを気に入ったと思い込んだらしく、『貢物』には必ず糖蜜酒が加わるようになっていましたわ。実のところは、自分らが飲む酒を持ち込むための、単なる口実に過ぎなかったのでしょうよ。でも形式的には、まず私のところへ運ばれてきました。大きな甕に入れた酒が、いくつも、いくつも。 私に、日がな一日、飲んだくれていろとでも言う気かしら。・・・王とは、このように遇されるものなの?」 「それは違う」 女は、浩瀚を見た。 「そう。あなたは、違うことをご存知だったの」 This fanfiction is written by YURI in 2005.
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