神の酒


 ある日、金波宮に氾王から親書と襦裙、それに伴う飾りが一式届けられた。親書には「わたしの努力に報い、着飾って出迎えてくれぬか」とあった。

 範国主従がくつろいでいた淹久閣の一室の扉が開かれると、そこには見事な緋色の髪に豪奢な歩揺を挿した美人が立っていた。
「遠路はるばる、ようこそおいで下された」
陽子が祥瓊に仕込まれた通り優雅に供手すると、髪に挿された歩揺が星の楽の音を奏でた。榻で寝そべっていた氾麟が「まあ!」と声を上げると飛び降りて、陽子の元へ駆け依ってきた。
「とても綺麗よ、陽子。さすが、主上のお見立てですわ」
眼を輝かせて振り向く氾麒に氾王は口の端で笑い、陽子に近づいてきた。そして、閉じたままの扇子を口元に当て、陽子の全身を眺めて眼を細めた。
「想像よりも実際に眼にする姿の方が余程心が騒ぐ。景王を美しく着飾るのは金波宮の女官に勝るものはないようだね」
「氾王からそのようなお言葉を頂けたと知ったら、彼女たちも喜びましょう」
「触れても良いかえ?」
「ええ、どうぞ」
陽子がそう言うと氾王はふわりと、いつになく華奢な陽子を抱き締めた。この風変わりな麗人に抱き締められても不思議と男に触れられているという感覚はなかった。
「ほんに、景王は愛らしい。国へ連れて帰りたいほどだよ」
「今のわたしは着飾られている人形に過ぎません。内実を知れば後悔することになるでしょう」
陽子は落ち着き払って言った。
「なに、美しさとは内面をよく現すものだよ。わたしはそんな陽子に似合う物を贈ったつもりなのだからね」
言って氾王は流れるような仕草で陽子を椅子へ導き、座らせた。そして、やはり流れるように螺鈿が施された箱から玻璃の器を取り出して陽子の目の前に置いた。そして、今度は木箱から分厚い玻璃の瓶を取り出して、栓を開けると圧縮された空気が飛び出る音がした。
「この酒を封じるために冬官達は苦労をしてね。しかも向こうと違って開けやすい工夫も施してある。金波宮の冬官を範へ遣わせてくりゃれ」
「何から何までありがとうございます」
陽子は傍らに立つ氾王を見上げて言った。氾王は陽子の頤に手を添えた。陽子は碧の瞳を大きく開き、艶やかな唇を軽く開いた。
「景王にその様な美しい貌で礼を言ってもらえると苦労をした甲斐があるというものだよ」
陽子は氾王の手から逃れて歩揺の音を立てながら横を向いて俯いた。
「美しさなど、今の慶には役立ちません。わたしは力強い腕をこそ望みます」
氾王は陽子の言葉に声を上げて笑った。
「景王は思い違いをされておるようじゃ。力強い男王の腕など二本しかないが、美しい女王のためにと集まる腕はそれを遙かに超える。しかも、屈強な腕だけではない。どのような才もそなたの望みのままに集まるというに」
「わたしにはそのような芸当はできそうもない・・・」
「既にやっておいて、それを言うのかえ?着飾らなくてもそなたの魅力に惹かれた者が側近にはおるであろ?隣の猿王とて例外ではあるまい?それに、こうしてそなたの喜ぶ貌が見たくて望みの酒を持ってくる物好きな王もいる」
陽子は呆然と氾王を見上げた。氾王は陽子に微笑んだ。
「つまりはそういうことなのだね。景王が美しくあればもっと多くの者共が競って己の才をそなたに捧げる。単純なことに彼等にはそれが幸せなのだよ。それが慶のためになるであれば景王には着飾ることを厭う必要はないであろ?」
「そんなに簡単に物事が運べば苦労はないのではありませんか?」
「では、まずはこの酒で試してみるかえ?」
氾王が陽子の酒杯にゆっくりと酒を注ぐと、黄金の液体からは細やかな気泡が立ち上り、心躍る爽やかな音がした。陽子の酒杯に酒を注ぎ終わると氾王は卓子の反対へ回り、氾麟が用意した酒杯に酒を注いで、陽子の向かいに座った。
「景王の民を想う心に」
氾王が玻璃の酒杯を掲げると陽子と氾麟もそれに倣った。
「氾王のご厚意に」
「陽子の美しさに」
酒を飲むと陽子は大きく眼を見開いて氾王を見つめた。その瞳は僅かに潤んでいた。
「どうだえ?」
酒杯を置いて指を組み、氾王は笑みを浮かべて陽子に言った。
「慶の香りがします。景麒が取り寄せてくれたドン・ペリニョンより、わたしには美味しく感じる。これであの里も救われます。何とお礼を言っていいか・・・」
陽子は玻璃の酒杯を大事に両手で包んだ。
「なに、面白そうだった故、興味を持ったまでのこと。ただの気まぐれに過ぎぬ」
澄まして言う氾王に氾麟はくすりと笑った。
「そうよ、陽子。興味があると主上はとても真剣に向かい合うの。そんな主上はとても素敵なのよ」
「梨雪・・・」
氾王は氾麟を軽く睨め付けた。氾麟はぷいと横を向いた。
「ここ五十年ほど主上のあんなお姿は拝見していませんわ。本当に心配したんですから」
氾王は氾麟に軽く眼を見張ってから、陽子に向かって微笑んだ。
「だそうじゃぞえ。範の者は感謝をしているようなので、景王には恐縮するには及ばぬようじゃ」
陽子は目の前の主従に微笑んだ。
「範の民は本当に幸せですね」
「あら、陽子だってこれからじゃない。それよりも、主上は陽子の為にもしゃんぱんを作ってあるのよ。ねえ主上、飲むのは景麒や冢宰が来てからでも、瓶を見せてあげましょうよ!」
氾麟は卓子に両手を置いて身を乗り出し、眼を輝かせて氾王を見つめた。
「そうだね」
氾王は立ち上がってもう一つの木箱からもどっしりとした瓶を取り出した。それは鮮やかに紅く透きとおっていた。

− 了 −

coさんのイラスト編
This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2003.
[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.

シャンパンは言わずと知れたフランスのシャンパーニュ地方で作られた発泡性のあるワインのことで、他の地域で作られた場合はスパークリング・ワインと言います。フランス国内ものならばヴァン・ムスーと言うらしい。
しかし、シャンパンやクレマン、ボジョレー、コニャック、カルバドスとフランスはこの手の名称には煩いですね。しかしそれはそれ、常世では商標登録なんて関係な〜い!
シャンパンの始まりはフランスの寒い地方で発酵の終わっていないワインを瓶詰めしてからさらに発酵させて出来たものだそうです。そして、かの有名なドン・ペリニョン修道士の卓絶したセンスがなければ誕生しなかったとまで言われています。
この話は慶の葡萄だけが産物のとある厳冬の里を豊かにしようとして陽子がシャンパンを作らせようとしたと思って下さい。しかし味や香りが美味く出せず、氾王が協力を申し出たという設定になっています。
一度男らしい氾王を書いてみたかったのですが、そんなことを考えるのはわたしぐらいなものでしょうね。
試行錯誤をして憔悴している氾王を想像してみると、なかなかそそるのではないか?と思っているのですが・・・

−制作裏話−
はー様の10万ヒットのお祝いに押しつけてしまいました ^^;)
カルバドス編を考えた時に一緒に浮かびはしたものの、恋愛要素が少ないため放っておいたものです。しかしお祝いならば華やかに、と復活させたのがこの作品。
コラボレーションに乗ってくれたcoさんのお陰で当初の目的を果たせました。
この辺の詳しい裏話はcoさんのイラスト編にあります。

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