奇跡の玉 −前編−



それは月の綺麗な夜だった。
浩瀚は何時もより早く政務が済み、帰り支度をしていると、回廊に椅子を持ち込み、ゆったりと座った陽子を見かけた。
月の光に照らされた陽子は、普段の姿とは又少し異なる、憂いを帯びた姿だった。
何か考え事をしていたのだろうか?物憂げな表情の陽子が、浩瀚の心に引っかかり、彼はそのまま立ち竦んでしまう。
『さて、如何したものか』
このまま前に進むのが一番近道である。
しかし、陽子の邪魔はしたくない。
自分が通れば、陽子の事だ、すぐに気付いてしまうだろう。
伊達に、禁軍左将軍の手解きは受けていない筈だ。
このまま別の道を行こうかとも考えたが、どうも足が進まない。
目が離せないのだ。
庭から虫の声が静かに聞こえる。
カナ、カナ、カナ、カナ…カナ、カナ、カナ、カナ…
その声がふっと止むと、陽子は何気なく振り返り、浩瀚と目が合った。
「通行の邪魔をしただろうか?…すまない」
陽子が急いで立ち上がろうとする。
「いえ、ご心配には及びません。…その、…少し見惚れておりましたので」
「お前もか。本当に今宵は月の美しい事だ」
浩瀚は何に見惚れていたかは、言うつもりもなかった。
「…そうですね」
穏やかな笑みを浮かべると、漸く前に進もうとする。
「何か考え事をしていた様にお見受け致しましたが、いかがなされましたか?」
「別に。何でもないよ」
陽子はそれ以上語ろうとはしない。
「…何でも…ないから…」
浩瀚は何故か寂しかった。
人にはそれぞれ、多かれ少なかれ悩みがあるものだ。
第三者が踏み込めない領域がある。
もともと浩瀚はその領域を大切にするべきだと考えている。
しかし、何故だろう。
今、目の前にいる少女の心の中を解き明かしたい。
出来れば受け止め、軽くしてやりたい。
そういう思いに駆られ、そんな己に驚くのだった。
『そこまで相手に関わりたいとは。…全く、こんな想いは初めてだ』
浩瀚は、己の真の想いは有能な臣下の仮面で隠し、柔らかい物腰で話し出した。
「主上、もし宜しければ、私と月を愛でながら酒をご一緒して頂けませんか?」
陽子が目を丸くする。
「…私が、お前とか?」
「ご迷惑でございますか?」
「そんな、…それは…無い。しかし、私はあまり強くはないぞ。面白くないかも知れない…」
あたふたとしている陽子を見て、浩瀚はくつりと笑う。
「別に主上と呑み比べをする訳ではございませんから。ただ、ゆるりと、この月夜を、主上と共に楽しめればと思いまして。…出すぎた真似でしょうか?」
ふるふると首を振る陽子を見て、
「では、用意を致します。暫しお待ちを」
そう言って浩瀚はその場を一旦去った。






「主上は女である前に、この国の王でございます。どうか、慎みを持って…」
陽子は、この日景麒に言われた言葉を思い返していた。
彼は彼なりに陽子を案じて言うのだろう。
しかし、それが陽子を悩ませる。
「私だって、出来れば今は必要ないと思うよ。でも、自分の気持ちに気付いてしまった。この思いは私の中で消せない。もう私の意識から消える事はない」
「それでも、お願い申し上げる。今のあなたには必要のないものだ!」
無表情のまま淡々と告げる景麒の言葉に、陽子の心は鋭利な刃物でえぐられた様な衝撃が走る。
「お前の要求はきついな」
言った陽子の瞳が落胆しているのを景麒は見て、無表情の中にもほんの少し影を落とす。
「…失礼…致しました。ですが主上、これだけはお心に止めて頂きたい。
あなたは、我々が待ち焦がれた、この国の王でございます。みすみす、斃れてしまっては、民の嘆きは計り知れないでしょう」
「…そうだな。なるべく、考えない様に努力するよ」
目を合わす事無く、そう言って去る陽子を見送ると、景麒は溜息を落とし、天を仰いだ。
「私はあなたを失いたくないのです。その為に、理不尽な事を言わなければならぬとも。あなたのお傍にいれるなら、私は、私は…」
この世のものとも思えぬ美しい、しかし美しさ故に冷たく見えるその顔に、
一筋の涙が頬を伝った。







「一緒に酒を呑むだけだ。それならば、いいだろう?」
陽子が誰に聞かせるともなく、一人呟くと、
「お待たせ致しました」
浩瀚が酒の用意をして傍らに控えていた。
月明かりの下、二人は取りとめのない事を話しながら、ゆるりゆるりとその時間を楽しんでいた。
久しぶりに浩瀚は、自分がひどく安らいだ気持ちになっている事に、気付いた。
一方で、心があわ立つ事にも似た、擽ったい感覚も感じている。
心地よく心を振るわせる、この雰囲気。
『この一時が何時までも続いてはくれないものか』
埒もない事を思い苦笑する。
すると、酔いも深まった陽子は、浩瀚に質問をした。
「慶は、良くなってきているのだろうか?」
杯を弄ぶ様に手の中で回していた浩瀚は、その手を止める。
「ええ、少しずつではございますが、確実に良き方向に向かっております」
「民はおなかを空かす事無く、暮らしていっているのだろうか?」
「…」
「緑は着々と慶に広がっているのだろうか?」
「…」
「この月を、皆が幸せな心持で眺めてくれているだろうか?」
「…」
「…まだ、駄目だな」
「はっ?」
「私はまだ斃れる訳にはいかない」
陽子が突然思いもしない事をいうので、浩瀚はびっくりして陽子の顔を覗き込んだ。
そして、はっと息をのむ。
陽子に誰も纏う事の出来ない強い気を見たのだ。
彼女の内側に潜んでいる、情熱を。
妖しくも孤高に光る、女王としての器を。
『ああ、この人はやはり』
自分とは違う次元で生きているお人なのだと、浩瀚は胸つまされる思いだった。
『だからこそ、惹かれる。触れてはならぬと思うが故に、どうしようもなく、あなたに引きこまれていく』
浩瀚は暫く無言だった。
冷ややかな風が、二人の間をすり抜ける。
「…有難う、浩瀚。楽しかったよ」
陽子が、少女の様なあどけない表情で笑う。
先ほどまでの、赤き炎にも似た妖しい光は、陽子の周りから消えていた。
そして、また安らいだ静かな雰囲気が彼女を包む。
「…ええ。私も、楽しゅうございました」
「又誘ってくれ。その時は皆で楽しもうか?」
『これ以上お前と二人だけでは、自分が暴走しそうで怖い』
陽子は、胸のうちを悟られない様、出来るだけ明るく話をする。
「そうですね。是非、又の時に」
浩瀚もいつもと変わらぬ落ち着いた物腰でこれに答えた。
それは人の心を見透かす様な、美しい月夜の事だった。



This fanfiction is written by RIN in 2004.



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