蒼の孤影を悼む時




それは圧倒的な力。


『お願いです、景麒』


もう願いとは言えない。


『傍を離れないで』


肌に食い込む彼女の長い爪。
僅かに柳眉を寄せて抵抗を試みても一切が無駄だと知る。


『愛しているのです』


それは免罪符ではない。もっと醜悪なもの。


『景麒』


否と言える筈がない。
彼女が縋れるものは自国の麒麟しかなく。
そして、拒絶する権限を景麒は持っていないのだから。







陽射しが温んだ午後。
慶東国、首都暁天。
国の中枢である金波宮の内殿の一室、僅かに開け放たれた窓から外気に温められた風が書卓の上に山積された書面の束をはためかせていた。何枚かは床に散らばり、そのままに捨て置かれている。

本来内殿は王が午後から執務を行う場であるが、そこに主の姿はなく閑散としていた。

景麒は堂を見渡し険しい表情を浮かべた。その薄紫の瞳には憂いの色が濃く滲む。
窓を閉め、床に散らばる書面を拾うため身を屈めた。
床につく程伸ばされた金色の髪が肩から零れて視界の端に映ることも、今は鬱屈とした気分にさせる。

「―――台輔」

姿なく響いた声は景麒の足元から。
景麒の使令の班渠である。彼ら妖魔は隠形出来るため人前に姿を晒すことは滅多にない。
忠実な僕である使令と言えど妖魔。不用意に姿を晒せば要らぬ混乱を招く。

「主上はやはり園林に。説得は徒労に終わりました」

景麒は深い溜息を吐く。
「わかった。下がっていい」

瑛州の執務をこなしていた景麒の元に、王宮から使者がやって来ることは珍しいものではなくなっている。
王が執務を放り出し姿をくらます、元々王の威信など無いに等しく、官は景麒にすら毒を吐く。
先に使令に迎えに行かせたが、無理であろう事はわかっていた。

暁天郊外にある小さな園林。夢を凝縮したようなその美しく穏やかな園林を景王・舒覚はことのほか気に入り政務を投げ出し通うようになった。
景麒以外の者が連れ戻そうとしても舒覚は是と言わない。

彼女が王座に付いて数年。国は復興からは程遠い。せめて国が軌道にのり安定した時期ならば、舒覚の平凡過ぎる小さな夢を誰も責めはしないだろう。
慶はここ何代か短命な王が続いた。国が力を取り戻す前に倒れ、その度荒廃は更に深くなる。
国も民も疲れていた。荒廃を呼ぶかのように倒れて行く王に対する不信は根強い。

舒覚は穏やかで優しく思慮深い性格だ。
天啓は彼女を選んだ。王として資質を確かに持っている筈なのだ。
だが彼女は荒廃を受け入れるだけの度量を持たなかった。
覇権を争う官を厭い、己に課せられたものを否定し、荒廃に目を向けようとしない。
彼女の望む小さな幸せは荒廃の先にしかなかったのに。

書面を全て拾い上げ書卓の上に置いた。無造作に置かれた書面の束には王の裁可如何によって民の今後が大きく変化する重要なものも少なくない。
民の辛苦を思うと溜息は重く深いものになる。

険しい表情を消さぬまま、景麒は己の唯一の主の元へ向かった。







小さな園林には不安も争いも荒廃もなく、午後の陽射しに照らされ穏やかな静寂に包まれていた。
郷愁と言うものを形にするならば、ここに広がる景色はピタリと嵌る。
園林には四季折々の草木が広がり、自然にまかせたままのびのびと花をつける樣は素朴で美しい。
数件ある民家からは慎ましく暮らしを営む者達の笑い声や話し声が聞こえる。


景麒は園林の一郭に設けられた小さな家の門をくぐった。
この景色と同様に素朴な佇まいを見せる家は貴人が滞在するには相応しくないものだった。

開け放たれた窓からは優しい風が花の甘い香と子供達の笑い声を運んで来る。
窓際に置かれた椅子に腰掛け彼女はこの空間にまどろんでいた。
手には作りかけの刺繍。

王宮では見ることの出来ない穏やかな姿に景麒の焦燥は募る。

「―――主上」

冷淡で硬い声が夢を破るのに舒覚は重たげにその瞼をあげた。
金色の髪が陽の光を受けて輝くのを一瞬眩しそうに見つめる。
己の麒麟の姿を確認すると不快も露わに顔を歪め視線を窓へと転じた。

「主上」

再度の呼びかけに舒覚は完璧に無視を決め込む。
景麒の能面のような顔に疲れとも困惑ともとれる色が浮ぶ。

「・・・何故、貴方が来なかったのです?」

視線を窓に向けたまま、声には責める響きが宿る。
景麒ではなく使令を先に寄越した事が気に入らないのだが、景麒にわかろう筈がない。

「政務がございました。主上、どうかお戻り下さい」

ようやく舒覚が景麒に視線を向ける。その瞳に勘気を感じる。

「景麒はわたくしよりも政務が大事なのですか?」
「主上、そういった問題ではございません」
「政務ならば優秀な官がいるではありませんか」
「主上・・・」

景麒の顔に厳しさが増す。
舒覚は椅子から立ち上がると景麒の目の前まで寄った。請うように景麒を見上げる。

「わたくしには貴方しかいないのです」

女の細く白い腕が景麒の首に絡みつく。
景麒はその腕を払いのけることも、その身を抱き返すことも出来ぬまま立ち尽くすしかない。

「そのようなことはありません。主上には国も民もいるではありませんか」

否定するようにより一層身を寄せる。景麒を見つめる瞳は色艶を増し、無粋なその口を己の口で塞いだ。





麒麟は仁の生き物である。人間が感じる欲求―食欲・物欲・性欲等に対して希薄に出来ている。
彼らが唯一強く求めるものは己の主の存在だった。それは魂の奥深く刻み込まれ、自らの存在意義に等しい。
どんなにそりが合わずとも王を思わぬ麒麟はいない。真実王を拒絶できる麒麟はいない。




薄暗い房間の臥牀に倒れ込む二つの影。
請われるままに景麒は華奢な体を抱き寄せた。
舒覚は恍惚と景麒を見つめ、与えられる感覚に身を震わせた。

時折上がる嬌声に耳を塞いでしまいたい衝動に駆られる。

男女の営みを景麒は理解出来なかった。情欲に乏しく、そこに流れる感情を理解するのは更に困難だった。
舒覚から向けられる恋情は責め苦でしかなく、だか拒絶することは許されない。

信頼関係から生まれる愛情ならば良かった。
例え景麒が理想とする王の姿でなくとも舒覚は主であり、主を思う気持ちに変わりは無い。
良くも悪くも主以外にはなり得ない。

「景麒・・・景麒・・・」

何度愛を囁かれても、景麒の胸に押し寄せるのは苦痛。暴力としか思えないこの行為は精神を酷く疲労させる。
精一杯の思いを込めて縋り付く舒覚を憐れに思っても、彼女の望む思いを返せない。

だから、彼女はより一層景麒を求める。



舒覚が苦しんでいることを景麒は知っている。王であることに苦痛を覚えている。
出逢った頃、健康そうに輝いていた頬は見る影もなく、晴れた空のように見事な青色の髪は色艶を失い、穏やかな光を宿していた瞳には憂いの色を。

王にすべきではなかった。


与えられたものから目をそらすように舒覚は景麒を愛した。
自らの愚かな行いを一番理解していたのは舒覚本人だ。
わかっていても、どうにも出来ないことがある。それは苦しみを更に増す。

景麒が舒覚を拒絶すれば、危うい状態でようやく保たれている彼女の均衡は崩れ去る。
麒麟にそれが耐えられる筈がない。
王が国のために存在するならば、麒麟だけは王のために存在するのだから。
彼女を女性として愛せなくとも、如何程の苦痛が伴おうとも。

景麒だけは拒絶してはいけない。




互いの身を一つに溶け合わせながら、景麒が見ていたのは一つの未来だった。
それは国の崩壊であり、腕の中の主の死であり、己の死である。
絶望が景麒を締め上げる。


(だが、まだ間に合う・・・)







夜気に紛れて人の気配が臥室に忍んで来るのを夢現に景麒は感じていた。
瞼を押し上げるのも、息をするのでえ億劫だった。
確認せずともそれが誰かは明確に判断出来る。その余りに薄い覇気が景麒の心を苛んだ。

おぼつかない足取りは牀の前で止まり、震える華奢な手が天蓋の薄布を押し上げた。
咄嗟に息を詰る。

長い髪は色を失い、本来白い肌は土色に変わり端整な顔に浮ぶ紫斑。力なく寝台に横たわる姿に生気の欠片とてなく、息をしているのかさえ怪しい。
日毎に病は景麒を蝕んでいる。失道という最も忌避すべき病が。

崩れるように牀に突っ伏して女は落涙した。堪えても漏れる嗚咽が景麒の耳を打つ。

「ご・・めんな・・さい・・景・・麒・・っ」

何度も謝罪の言葉を繰り返し、頬を流れる涙は枯れる事がなかった。
後悔というには余りに重い罪を彼女は犯した。

景麒は重い瞼を押し上げ泣き崩れる主を見つめた。
痩せこけた憐れな女の姿があった。彼女の苦悩を景麒は十分に理解していた。

"まだ間に合う・・・"

何度も言い聞かせた言葉。だが今口をついで出てきたのは。

「もう、良いのです・・・」

突如掛けられた声に舒覚は顔を上げた。その涙に崩れた顔を見つめ景麒の瞳に優しい光が灯る。

「もう良いのです、主上。貴方は十分に苦しんだ」
「景麒・・・」

人であったなら、彼女の望む幸せは簡単に手に入っただろう。苦しむことなく幸福に笑っていられただろう。
現実は望まぬものばかり与えられ、息つく暇もない。
もう、楽になってもいいのだ。彼女も自分も。

舒覚の涙は溢れて止まらず、景麒の手がそっと伸ばされるとその掌に頬を押し当てて泣きじゃくる。

「罪は貴方だけのものではない」

罪は景麒にもある。
請われれば傍に寄り、口付けを交わし抱き締め肌を重ねもした。だが最後までただ一人の女性として愛することはなかった。
景麒に愛されない不安が舒覚を追い詰め、愚行に至った。
重苦しい重責の中で景麒だけが救いであったのに。苦しいからこそ景麒を盲目的に愛したとしても。
それでも舒覚の想いは紛れもなく真実だった。

「景麒・・・」

沈む意識の中で、胸を締め付けるほどに切ない色を宿した舒覚が景麒の見た最後の姿だった。




明朝、舒覚は蓬山に登り退位を申し出た。
在位僅か6年。彼女の死を悼む者は慶国にはいなかった。自国の麒麟を除いて―――――


This fanfiction is written by KANATA in 2003.

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