緋の糸 2 −葉月様−「主上・・・」 男は結局いつものように政務をこなし、邸宅に戻った。そして重い気分のままに、臥室へと扉を開けたのだったが・・・ いつもどこから入り込むのか、不思議だ。気高い少女は広い窓を開け放ったままその桟に腰掛け、月を眺めていた。 銀の光が幼い横顔を照らし、より彼女を優しげに、そして近寄りがたく輝かせていた。 くるりとこちらを振り返り、そのひとならざる人は、大輪の花の笑顔を見せる。 「きてしまった・・・逢いたくて。迷惑、だったか?」 愛らしい口唇から零される、それ以上に愛らしい言葉。期待してはいけない。そのことを理性では重々承知できているのに、ふらふらとその前に迷いそうになる。 「窓を・・・閉めて下さいませ」 「そう?せっかく、良い夜なのに」 残念そうに少女は呟くと、すとり、とそこから降り、後ろ手に窓を閉じた。 「・・?どうした?」 すっとさりげなく後ろへとさがる男。そんな距離をとろうとするかのような態度に、女王は小首をかしげる。 「私は・・・なにも、聞いておりませんでした」 「――何の話?」 心底から不思議そうに、少女は瞬きをする。 「雁の、ことでございます・・・国境沿いで――妖魔が出るとか」 「ああ・・そのこと。まだ私も詳しくは聞いてないけど。まだはっきりとしたことではないし、冢宰の耳にいれるほどのことでは・・・」 そんなはずはない。隣国の、それも誼の深い国の事情が、重要でないなど。不確実なことととはいえ、「冢宰」の耳に入らぬはずなど。例えば――何らかの意図で塞き止められてでもいない限り。 「ではなぜ、左将軍はこのことを存じておるのに・・・この私の耳にははいらぬのです!」 硬かった男の声が、突如大きく響く。その様子に驚いたのか、碧の大きな目が瞠られた。 「桓堆がねえ、ふうん・・・でもそれじゃ、浩瀚」 紅い唇がくすり、と笑む。 「まるで、桓堆に焼いているように聞こえるよ?」 「っ、その、ような・・・」 「ふふ、可愛いね・・・浩瀚」 「主上・・・もう、おやめくださいませ」 「なに、を?」 「ですから・・・」 「――私に、飽きた?」 するり、と細い腕が、男の首の後ろへと回される。 「こうされるの、厭?・・・」 こくり、と男は息を呑む。男の姿だけを捉えた翠玉と、紅い唇が間近にあって、 「浩瀚・・」 頬にかかる甘い、吐息。 長い睫がふわり、と月光を弾いたように陰を作った。 少女を己のものとして、一月はひたすら溺れていられた。 けれども、それは長くは続かなかった。 ・・・幾度もの行為のたび、思い知らされた。 己の存在の無意味さ。 この身はただ、それだけのためにあるのだと。 欲するか、欲さないか。決めるのは男ではない。少女のほう。 そのうち、男は懼れるようになった。 ――少女は、彼が少女を想うようには彼を想っていない? いや、むしろ・・・憎んでさえいるのではないか? モノのように扱われるたび、身が軋んだ。 だが、今なら解る。この関係には、憎しみさえ介在しない。 何の感情のかけらも・・・ないのだと。 「浩瀚・・・なに、考えてるの?」 「主上・・・」 「そう、呼ぶなって・・・言ったろ?」 解けた黒髪を、少女がおしおきとでもいうように軽く引く。仔猫のように戯れてくるその仕草は、ここが閨だということをいっそ信じがたくさせた。 「・・・もう一つ、常世と似たような世界があったとします。そこには私や、貴女、そっくり同じ人がいる」 「・・・何の話?」 「おとぎばなしですよ?蓬莱にはございませんでしたか?」 「知らない、かな?」 男の髪を弄びながら、目を上げもせずに少女は応じる。 「・・そういう、世界が、国があるとして・・・そこでは貴女も私も普通の生活をしています。貴女は王でもなく、私も、冢宰でもない」 「へえ――変なの」 「そんな世界があったら・・行きたいと――私と一緒に行ってくださいますか?」 今まで男の寝物語に退屈そうにしていた少女だが、その問いには興味を引かれたらしい。瞳を煌かせ、面白そうに笑った。 男は静かに、少女の言葉を待った。 「さあね・・・私にはこちらの水が、あってるんじゃないのかな?」 一糸纏わぬままで、牀に寝そべるその姿は、緋色の髪に縁取られ、異界の生き物のように艶やかだ。 「そうですね・・・おとぎばなし、ですから」 「珍しいね・・・貴方が、そんな話」 「そう、ですか?」 「それより・・・浩瀚・・・もう、一度・・」 緋色の紗が、さらりと視界を覆った。 「はい・・・」 雁は、沈むのだろうか? 女王は、悲しむに違いない。雁の民を憐れんで。彼の王を、悼んで。 きっと・・・ 恋に溺れることは、恋に狂うことは罪だ。 そう知りながら誰が抗えるというのだろう? あまりに甘い、その罠に。 この四肢に、首筋に絡まる紅い糸を、誰が振り払えるだろう? そこから誰が抜け出せるというのだろう? 人は、弱い。 だから何かに縋っていきる。己以外の絶対的な存在に。 では、人が完全で――全能で在ることを求められたら、どうすればよいのだろう? 人でありながら、『神』として生きる? 人はどこまでも、人でしかないのに? なにものにも縋ることが許されないで、どうして生きられる? いつかは、歪む・・・・定め。 だれしもまた、贄でしかないのかもしれない。 次々に、人は生まれ、流れ、落ち ―――そして沈む。 This fanfiction is written by Haduki Manatsu in 2004. [無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition. |
「CherryblossomStrawberrys'」の1周年フリー配布を頂いてきました。 ブラックなキャラクターはわたしには書けないのですが、ブラックな陽子さんは格好いいv と惚れ込んでいます。 それがフリー配布だったら、欲しくなるのが人情といういうものでしょう? 少女の顔と仕草で男共を翻弄し、生気を吸い取るバンパイアのような陽子さんもいいですねv 浩瀚の理性が麻痺していくのも面白い・・・(邪笑) |
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