緋の糸 1 −葉月様−



昨夜の余韻か、肩が痛む。甘いのか、苦いのか、甘いのか。

小さな爪痕。

どこもかしこも、痛い。





「――なん、だって?」


「ですから・・・・雁の沿いの国境で、妖魔が出ると」
「それは・・本当か?」
「ええ。お耳に・・・入っていなかったのですか?」


意外そうに聞き返してくる青年―桓堆はこちらの顔色を伺っているようだ。

「そうか・・・」
「あのこれは・・・もちろん我々しか、まだ知り得ていないことでして・・慶の民草にはまだ」
「ああ・・・」


そこまで、にはいたっていないということかと男は判じた。
「しかし、浩瀚様が・・・」
「なんだ?」
「いえ・・」

苦い貌の男に気遣ったのか、憚られたのか。日頃は遠慮などするはずもない青年が、口篭もる。しかし、飲み込まれた言葉は、察しが付く気がした。古い友人である左将軍は、男の視線から、さりげなく逃れた。




もう、三月以上前のことだ。

よくあることだった。
隣国の王が、また押かけてきたと苦り切った顔の女史から聞いた。珍しいことではない。
だが、同時に落胆を禁じ得なかった。その訪いも途絶えていた気がして、男が内心ほっとしていた矢先の訪問だったのだ。あの男―雁の王の主人を見る目は、尋常ではない。少なくとも、隣国の王を見る目ではない。そう、感じていた。

主人は、昼の政務に入る前、休息を取る。内殿のちいさな書房で。そこに、あの王もいるに違いない。

扉は、ほんの少し開いていた。



『・・・・っ』
押し殺したような、低い声が聞こえた気がした。

見てはいけない。

知ってはいけない。


だが。

男は――その向こうを、覗いた。




一瞬、目を疑った。


目に入ったのは男にのしかかられ、獣のように唇をむさぼりあっている、主だった。

黒の官服は乱れ、大きくその胸元はのぞき、太股が露わになっていた。
ついさきほど前迄の朝議で見せていた凛と美しい、気高い姿はどこにもなかった。
うめくような男の声。男の長い黒髪を引きながら、少女も甘い声を挙げていた。あまりに衝撃的で淫らな光景に、知らず、息を呑んでいた。瞬間、さら、と紅い髪が舞った。

『・・・・』
悦楽に溺れた雁の王の肩越し。冷えた翠の眼は明らかにこちらを捉えていた。少女は、微笑っていたのだ。
嘘のように穏やかで――それでいて蟲惑的な貌だった。


触れてはならない、人。

誰のものにもならないから、堪えていられた。

胸のうちに想うことさえも、禁忌だったのに。



その夜。男は、少女に想いを告げた。

少女は静かに笑った。あの艶やかな貌で。
『あれを、みちゃったんだ?』

男はただ、目を伏せた。

『私を・・・好き?私が・・・欲しい?』


強い、碧に魅入られた。

『いいよ・・ただ、お前を頂戴?』


紅い舌が、小さな唇をちろりと舐めた。
『・・・くれる?』
愚かな躯はただ、狂喜に震えていた。

そして。


男は想いを遂げた。


嬉しかった。何も考えず、少女は隣国の王ではなくこの己を選んだのだと。そう、信じていた。

その後、あの王が、主と同じ胎果の王が、慶を訪れることは絶えた。
いっそ、爽快だった。

なのに――今、己を支配するものは・・・・なぜ恐れに似ている?



This fanfiction is written by Haduki Manatsu in 2004.

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