漣国の夜明け




 漣国が玉座の主を失ってから二十年以上の月日が経とうとしていた。鴨世卓の記憶にある限りではこの国に王というものがあった試しはない。南国に位置するこの国ではかつて豊饒な実りがあったと聞くが、彼にとっては旱魃や洪水、冷害、風害のいずれかがあるのはあたりまえになっていた。毎年、畑で育てた作物の半分近くは何某かの被害に遭う。しかし、半分で済んでいるのは彼の作付けの計画と手間暇をふんだんにかけた成果でもあった。
 それは彼が一人で生活する分には贅沢をしなければ十分な収穫だったのだが、彼は里家や近隣の働けない者がいる家には自分一人には多いから、と分け与えてしまうので、彼の生活はいつまでたっても貧しいままだった。彼の働きぶりに惚れ込む女がいないでもなかったが、結局自分と野菜のどちらが大事かと迫った挙げ句に、女は彼の家から出て行ってしまうのだった。彼と共に農作業を楽しんでくれる女がいたら結婚したいと思ってはいても、野合止まりで終わってしまうのは彼の農に対する拘りが尋常でなかったせいでもある。

「野菜と人間の女を比べさせること自体がおかしいとは思わないか?」
世卓の向かいに座っていた男はくつくつと笑った。
「ようは、野菜にかける手間を自分にもかけて欲しいってことなんだよ」
世卓は酒杯を握ったまま「うう〜」と頭を抱えた。彼の目の前の男はその姿を楽しみながら酒を飲んでいた。
「まあ、お前さんの不幸は一年中農作業が出来るこの環境だな。北で生活していたら、冬に一緒に寝る相手がいなけりゃ凍え死んじまう。そうなりゃ相手のある程度の不満も我慢できるってもんだ」
「北の国では半年近くが冬だったよな。もしも自分と合わない女だったら、春を待つ自信がない」
彼の目の前の男はむせかえり、激しく咳き込んだ。
「この国に王が起てば農作業にかけなければならない手間も減る。そうなりゃお前さんも嫁さんを娶る気になるさ」
「この国に王がいればあんたと会うこともなかったんだな」
「猟木師と喜んで付き合うのはお前さんくらいなものだ。本来なら関わらない方がいいもんなんだよ。この里の連中もいいお得意さんだが、お前さんを通して買っているだろう。それっくらい、付き合いたくない存在なんだよ。この国に王が起ったらもう付き合うことはない、と喜ぶだろうな」
目の前の男、猟木師はさらりと言って酒杯を口にした。
「王が起ったらもうここへは来ないのか?」
「必要がないだろう?お前さんは旱魃や冷害に強い作物が欲しくて俺と関わることになった。だが、気候が安定すればそんなもんは植えんだろうが」
「そうだったな」
世卓は酒杯に手をかけたまま、遠くを見ていた。
「どうしても付き合いたいってんだったら、珍しい花や木を育ててみるか?その代わり高いぜ」
「そうだな、王が失道した時のために猟木師との繋ぎはとっておきたい」
世卓の目の前の男はやれやれと、首を横に振った。
「珍しい奴だ」
「あんたには感謝しているんだ」
世卓は機嫌良く言った。
「よせよ、最初にぼったくられたことを忘れたのか?」
「今にして思えば、授業料みないなものだよ」
猟木師は世卓を睨め付けた。
「感謝するほどのもんじゃねぇだろ。俺がお前さんの言う条件で育つ種を見つけて、お前さんが育てる。農作物を育てる腕はお前さんの右に出る者はいねぇんだぞ。育て方を一緒に教えれば種はよく売れるんだ。お前さんと俺との関係にゃ、貸し借りはない」
「そういうことにしておくよ」
世卓は明るく笑って酒杯を掲げた。





 そんなある日、世卓に奇妙な二人連れが訪ねてきた。18歳位の紫の瞳を持つ女性は絵から抜け出たように美しいのだが暑い日差しの中にもかかわらず頭から布を被り、12歳位の少女が付き従っていた。紫の瞳を持つ美女は世卓に親しげに微笑みかけ、少女は涙ぐんでいた。
「お捜し致しました。こうしてお目にかかれて幸せに存じます」
紫の瞳を持つ美女が両手を胸の前に組んで歌うように言った。
「申し訳ないが、俺はあなた方に覚えがない」
世卓がそっけなく言うと紫の瞳の美女は頭に被っていた布をひらりと取った。現れた金の髪に世卓は見事に育った麦の穂のようだと見とれた。
「天命を持って、主上にお迎えします」
目の前の美女は絹の襦裙のまま惜しげもなく土に跪き、泥だらけの世卓の沓に額づいた。
「御前を離れず、詔命に背かず、忠誠を誓うと誓約申し上げます」
その言葉は世卓には呪文のように聞こえた。美女の金の髪は彼女の背を覆い、世卓の足下をも覆っていた。

 世卓はまだ、目の前の美女の正体に気付いていない。彼女が獣形で現れたら納得しただろうが、金髪イコール国の宰輔とすぐに反応できるほど王と麒麟の話は耳にしていなかった。世卓が何も言わないので彼女は顔を上げ、紫の瞳で訴えた。
「どうか許す。と仰って下さい。わたしの王よ!」
言われて世卓はもう一人の少女に向き直り、人差し指で自分を指した。彼女は紫の瞳を持つ美女の後でやはり両膝を付き、伏礼をしていたが、何も言わない彼を頭を僅かに上げて見ていた。そして、彼の反応に深く頷き、再び頭を下げた。世卓は溜息をついて、頭を掻いた。
「困ったなぁ・・・」
 彼の今の最大の関心事は先月に猟木師から預かった新しい苗を育てることだった。



「では、その苗を育てたら一緒に雨潦宮へ登って頂けるのですね?」
紫の瞳の美女、廉麟は卓子に両手をついて身を乗り出した。畑で押し問答をしていても人目に付くので、三人は世卓の家の正房(おもや)で話し合っていた。廉麟に付き従っていた少女は蓬山の女仙で少春と名乗った。見かけは童女だが、雁の王より長く生きているという。彼女は慣れた手つきで茶を注いでいた。
「雨潦宮に畑はあるかな・・・」
「王宮に畑を作ってはいけないと天綱にはありません」
少春は笑いを堪えていたが、廉麟は真剣だった。
「王宮は天候には恵まれそうだけど、他のやっかいごとが多そうだ」
世卓は遠くを見た。
「わたしがお手伝い致します。出来る限りのことはします。ですからどうか、わたしを主上の下僕としてお許し下さい」
世卓は両手を軽く挙げて振った。
「君に不満があるわけじゃないよ。俺の方こそ君に釣り合うような主人じゃないというだけなんだ」
「この国の王はあなた様を置いて他にはいないのです」
取り付く島もなく断言されて世卓は頭を抱えた。
「とにかく俺は今やらなくてはならないことがある。天候が安定してしまえばもう試すことはできないからね」
「何故、不順な天候でなくてはならぬのでしょう?」
「王が失道した時のためだよ」
あっさりと言う世卓に廉麟と少春は眉根をよせて手を口に宛てた。しかしそれは束の間、廉麟は紫の瞳を輝かせて両手を胸の前で組んだ。
「わたしの王は高い志と深いお心を持つ、素晴らしい方です。漣はきっと栄えるでしょう。ねえ、少春」
誇らしげな廉麟に少春は微笑んだ。
「ええ、漣国が落ち着くまで、この少春はお供致します」
世卓はこの言葉にくつりと笑った。
「あの苗を刈り入れるまでに後3ヶ月はかかる。その間は二人とも蓬山に戻れるはずだ」
「いいえ!、やっとお会いできた王と離れたくはありません。何でもお手伝いします。どうぞ、ここにおいて下さいませ」
「結婚や野合する気もない女性をここに住まわせる訳にはいかない!」
世卓に睨め付けられて廉麟は一瞬怯んだが、世卓の言った言葉の意味を飲み込むと、にこりと笑った。
「麒麟は王の半身です。それは夫婦と同じようなものではないのですか?」
世卓は目を見開いて、少春を振り向いた。
「君はそれでいいのか?」
少春もにこりと微笑んだ。
「麒麟は本能で王を慕うもの、それに廉麟は見た目は人間ですが、本性は麒麟です。一緒に過ごしてみればご理解頂けましょう」
この言葉に世卓は首をかしげた。





 廉麟は世卓が思っていた通り、畑仕事には向かなかった。野菜の苗と雑草の区別が付かず、家事を頼むと最初は夕食に一週間分の食材を使った。彼女は持て成しの食事は作れても貧しい料理は作れなかった。こんな一般の民の生活も知らず、民意の具現とされるのは冗談のようだと世卓は思っていた。
 しかし、彼女は神聖な存在として大事に育てられたにもかかわらず、気安い性格で健気だった。世卓に気に入られるように、少春と共に家を磨き、野の花を飾って、限られた食材を工夫して美味しい食事を作った。世卓が褒めると幸せそうに微笑み、世卓が畑で取ってきた野菜や果物を目を輝かせながら美味しいと喜んだ。空いた時間は縫い物をしていたらしく、着る物の形を取り始めたそれはとても農夫の着る代物ではなかった。それに袖を通してみて欲しいと頼まれ、世卓は驚いた。
「何のために?」
廉麟はにこりと笑った。
「もちろん、主上と雨潦宮へ入る日のためですわ」
 この暮らしが短い間の夢だと頭ではわかっていても、ぎりぎりまで気付かない振りをしていたかった。しかし、あと一月以内で世卓は決断をしなければならなかった。

 ある日世卓は少春が買い物に出たことを確認するとすぐに家へ戻った。廉麟にこっそり近づこうにも、相手は優秀な獣の聴覚と嗅覚を持つため、正面から堂々と近づいた。そして彼女を両腕で抱き締めて、その金の髪に顔を埋めた。
「どうかされたのですか?」
常と変わりのない美しい声だった。
「君が欲しい」
世卓は廉麟の耳元で囁くと、彼女は世卓の背に両腕を回した。
「わたしは既に主上のものです」
そのおおらかな物言いに世卓は気が抜けた。廉麟の肩に手を置き、その瞳を熱く見つめたが、彼女は無邪気に微笑み返してくる。世卓は目を逸らすと、くつくつと肩で笑った。
「そうだったね」

 世卓は框窓(とぐち)の傍にある桃の木に背中から凭れかかった。梢を見上げると目を閉じた。
 廉麟は口づけをしても、閨を共にしようと誘っても嫌がりはしないだろう。だが、それは自分にとってはとても空しいことだということもわかり過ぎるほどわかっていた。
「まったく、人の姿をしていても人ではない、麒麟は罪な生き物だな・・・」



 廉麟がやって来てから三ヶ月が過ぎ、猟木師の友人が訪ねてきた。彼は友人の家に金の髪を持つ美女が現れると、しばし時が止まったように立ちつくし、後ろに立っている世卓の袖を引っ張った。
「おい、まさかこの家に王がいるんじゃないだろうな」
彼の言葉に廉麟がにこりと微笑んで「はい」と答えた。
「あなたの後に・・・」
彼が振り向くと、世卓は天上を見上げて顎を掻いた。
「お前が廉王?」
「そうらしい」
猟木師の友人は目を見開くとくつくつと笑った。
「こりゃ、完璧にこの国での俺の出番はないな。お前さんは今まで育ててきた冷害や旱魃に耐えられる作物はこれから必要なくても里木に願うんだろ?」
「すまん」
「謝らなくてもいい。この世はいつでもどこかで荒廃している国はあるもんだ。お前さんが今まで育ててきた作物を今度は慶で商売するさ。それに俺の商売の本業は金持ち連中に珍しい草木を高く売りつけることだ。気にするな!」
そう言って彼は世卓の背を力強く叩いた。





 大裘を纏った世卓は玉座から立ち上がった。玉座の傍らには正装をした廉麟が明るい光を放って立っていた。
「万民は健康に暮らすこと」
即位式の短い初勅に漣国の官吏達は一瞬、目と口を開く。
「主上におかれましては、我々にどうせよとお命じになっているのか、お教え願えませんでしょうか?」
冢宰の言葉に世卓はくつりと笑った。
「百姓上がりの王は頭が悪くて不安だろう?」
「滅相もございません」
「君達官吏は民がいつまでも健康に暮らせるように努力することが仕事ではなかったのか?」
「仰せの通りでございました。我等一同、政務の基本を忘れぬよう、主上の初勅を肝に命じてお仕えすることをお誓い致します」
冢宰が再び伏礼をすると、他の官吏達もより一層低く頭を下げた。

 こうして、農夫だった鴨世卓は正式に漣国の玉座の主となったのである。


− 了 −
This fanfiction is written by SUIGYOKU in 2005.
背景素材:InvisicleGreen

[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.



凍れる果実さま、「凍結果実」2周年おめでとうございます。
なのに、ちっとも目出度くないこの作品、世卓の登極話はお祝いになると書き上がる前までは思ったのですが、見込み違いでしたね。(^^;ゞ
でも、「希を極める」果実様にはフツーに考えつかない内容を面白がって頂けるのでは、とも思い直して、献上仕ります。

以下言い訳なのですが、わたしは鴨世卓という男は木訥な百姓だとは最初から思っていませんでした。そんなもので王になるのであれば百姓が王になるのはあたりまえではなかろうか、と思うのです。
百姓でありながら王に選定されたのは、百姓であっても国の在り方を考えられる人物でなくてはならなない、と「図南の翼」から思い込んでおり、国が落ち着いてない状況にもかかわらず泰麒の捜索で二度も廉麟を出張させているのは人の良さだけではなく、陽子に通じるモノがあるのではないか、と信じているのです。
そして、麒麟の本能は人間の情とは異なるのでは、という思い込みと、それによる王と麒麟のすれ違いは面白い、という俗物根性もありますので、真面目に受け取られませんよう、伏してお願い申し上げます。
所詮は妄想の産物なので、こんな捉え方もあるのね、と広いお心の片隅で許して頂ければ幸いです。


Albatross−翠玉的偏執世界−
背景素材:トリスの市場
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送