水は月に連なり花に狂う


雲海の上空にはぽっかりと浮かぶ月。正円の光は皓々として宮闕に立ち篭める闇をそっと押しやる。
「玉兎、玄兎、銀兎、兎魂」
陽子は呟く。
庭園の一角、月のよく見える場所に路亭はあった。路亭の卓の上には首をもたげた赤い蕾が鉢のまま置かれていた。甘い香りがうっすらと漂う。
「玉蟾<ぎょくせん>、銀蟾、蟾兎、蟾魄、蟾盤――誰だ」
人の気配を感じて振り返った先には、男がいた。夜をまとった木の影で顔は見えない。
ただ光の反射で手に何か持っていることは見て取れた。それが武器ではないことを素早く確認して男の顔に目を凝らす。すらりとした体躯。あまり気配をさとらせない身のこなし。
「浩瀚?」
「失礼いたしました。お邪魔をしてしまったようで」
木陰からあらわれた涼しげな容貌に陽子は苦笑する。彼は本当に邪魔な時は決して姿など現しはしない。
「いや、構わない。仕事か?」
「いいえ。老師が主上の月下美人が今日咲くだろうと仰っていたので、ご一緒させていただこうと思いまして」
「ああ、なんだそんなことか。どうぞ」
王に席をすすめられて冢宰は苦笑した。身分に構わない主の性格は一向に変わらない。
「浩瀚は気が利くな。それは酒だろう」
「月と花を愛でるなら、やはり必要かと思いまして。去年漬けたものです」
透明な液体の水面下、白い花がゆったりと過ごしている。花びらは透きとおっているが、美しさは変わらない。
「月下美人か?」
陽子が感心したように言うと浩瀚が頷く。
「果実酒用の酒に漬けたものです。一夜だけの花もこうすると長く持つものです」
「風流なのか不粋なのか判じかねるところだな」
浩瀚が軽く目を見張ったのを見て陽子は憮然とした。
「なんだその顔は。私が風流だとか気にすることが珍しいか」
「いいえ‥‥そうですね」
くすくすと笑う男をますます憮然として睨む。
「どっちなんだ」
「主上が雅を解さない方ではないとは存じておりますよ。でなければ花や月を愛でたりはなさらないでしょうから」
「なるほど。では今夜私が雅なことを解する人間だと、お前たちの認識を改めさせることができたわけだな」
拗ねる主がおかしくて浩瀚はますます笑う。陽子は憤然として酒に手をつけた。
「貰うからな」
どうぞ、とどこに持っていたのか杯を渡され、流れるような所作で男が杯を酒で満たす。
酒なのか花なのか甘い芳香が鼻孔をくすぐる。その香りだけで酔いそうだった。
「主上は雅な方ですよ」
何だ、と顔をあげると穏やかな微笑みにぶつかった。
「玉蟾、銀蟾――月の異名ですね。ご存知でいらっしゃるとは思いませんでした」
月の異名は数多く存在する。こちらで生まれ育ったわけではない主がそれを知っていたということは、彼女がどれだけこちらのことを勉強しているかという証だ。
「祥瓊が教えてくれたんだ。こういうことも覚えていれば得をする、と。いろいろいわくも一緒に教えてくれるから、覚えやすくて助かる。祥瓊はいい教師になりそうだ」
くすりと笑う。
そのくつろいだ笑みに浩瀚は安堵する。彼女が心穏やかに過ごせていることに。
「氷輪、氷鏡、水精、金精」
浩瀚が呟く。淀みなく言葉を並べ立てる声は詩を吟ずるかのように朗々として夜に響く。
「玉魂、玉盤、玉鏡、桂影、霊輪、金盆――いずれも月の異名です。月の異名は多いですが酒の異名もまた多いのですよ」
「たしか‥‥福水、掃愁帚というのがあったな」
「はい。他にも紅明、花露、竹露、碧友などさまざまにありますね」
薄く笑む浩瀚の表情をじっと見つめながら陽子はふと月下美人を見た。赤味のさした蕾がほころび、その白い幾重にも重なる花弁が開き始めている。甘く華やかな香りが衣を広げるようにふわりと香る。
声もなくふたりは見入った。
一夜しか咲かない花。
だから、だろうか。これほどに美しいのは。
ひとつ咲き、ふたつ咲き、咲き頃だった三つの蕾がすべて花開いた。
一夜といってもこの花は朝まで持つことはない。咲いたまま朝を迎えるのなら浩瀚がそうしたように、酒に漬けることしか術はないだろう。
「狂水‥‥」
ぽつりと紡がれた言葉に浩瀚を見る。
「酒の異名です。狂水、狂薬、魔水、禍泉‥‥」
「あまりいい響きではないな。だが月下美人をこうして閉じ込めているのを見ると、それもしっくりくるような気がする」
苦笑すると浩瀚がす、と立ち上がる。
「浩瀚?」
「お先に失礼いたします」
「最後まで見ないのか?」
浩瀚はあるかなしかの微笑みを浮かべた。月明かりのせいか顔色がよくないように見える。
「その月下美人の焼酎は主上に献上いたしましょう。あまりお過ごしにならないようにお願いいたしますよ」
「お前じゃあるまいし、そんなに飲めやしないよ」
声もなく静かに笑って浩瀚は拱手して退いた。途端に月も花も酒も寂しげなものに変わり果て、陽子はそっと息をつく。
「狂水‥‥」
同じ月光の下一方はのびのびと咲き一夜で散りゆき、一方は曲げられた時間をたゆたい永遠に眠る。
男が月と花に何を思ったのか陽子はその欠片も見い出すことができなかった。
女王花――月下美人の異名。それを彼が知らぬわけがない。 月を見上げて陽子は問うた。
「いったい誰が狂っている?」
そういえば金波は酒と月どちらの異名でもあったな、とひとりごちて目を閉じた。
夜闇に物言わぬ花と月だけがその存在を知らしめた。


This fanfiction is written by Hachiya Izumi in 2003.
[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.

和泉様のサイトSEVENTH BEEの1000ヒット記念企画のフリー配布を頂いて、ちゃっかり酒蔵に飾っています。酒の別名のオンパレードなんて酒蔵に相応しいでしょ? 要は自己満足ですが・・・
浩陽には月、花、酒の組み合わせがよく似合います。酒は月に連なり女王に狂う浩瀚ですよねv
でも、簡単に手を出せないから立ち去ってしまうのでしょうか。浩瀚をじらすのも好きなのです。月下美人を漬けた酒を女王様を思って一人飲む姿も似合いそうですが、他にも何本か持っていたりして・・・(^◇^)

酒の異名は440種、ひょとしたら500にもなるかも、その中の一部をご紹介しましょう。

酒のタイトルにした「狂水」はけなし言葉だそうですが(和泉様からは承諾を得ています)、「魔水」と併せて、浩瀚に似合うと思いません? 狂水が浩瀚で月下美人が陽子という妄想が頭から離れないのです。
他のけなし言葉である「禍泉」「逡巡」「迷魂湯」「地獄湯」も詩的でいいと思うのですけど。曹植の「荒淫之源」って、当サイトの酒のこと?(笑)と思ったのは秘密です(^^;)

「神酒」「御酒」「三輪」「百薬の長」「甘露」「ささ」(女房詞)「般若湯」はお馴染みですよね。
般若湯といえば寺での隠語ですが、他に「唐茶−とうちゃ」「大乗水」「閼伽−あか」「護摩酢」などもありました。酒ではないという方便なのでしょうね(笑)←仏教はなぜか方便が多い・・・

漢詩では蘇軾の「釣詩鈎−ちょうしこう」(釣り針にたとえる)や『洞庭春色詩』※の「憂いの玉箒」、『鶴林玉露』※の「紅友」、杜甫の「重碧」「鵞黄」(鵞鳥の雛の色になぞらえ)、白居易の「銷憂薬」「雲液」「醍醐」「玉液」、楊万里の「金盤露」「椒花雨−しょうかう」「鴨緑」、范成大の「雲露」、張衡『南都譜』から「十旬」(長い時間をかけて造った酒)「浮蟻−ふぎ」(発酵の際浮き上がる穀粒を蟻または蛆に見立てる)、陶淵明『飲酒其七』から「忘憂」や「杯中物・盃中物−はいちゅうのもの」、曹植『酒賦』の「縹青」「觴酌」、魏の曹操の「杜康」(何を以て憂いを解かん、惟杜康あるのみ)、王充の『論衡』道虚篇(詩ではないケド)から「流霞」、枚乗『柳譜』の「金漿」や『七発』の「蘭英」「腐腸之薬」、『詩経』から「黄流」があるそうな。
そして、『百詠』の註、もしくは劉石の故事から「竹葉」という呼び名もあり、これより「竹の葉」「竹葉青−ちくようせい」「竹葉春−ちくようしゅん」「竹光−ちくこう」「坡竹」「竹露」「竹醪−ちくろう」「坡竹−はちく」「篠」「笹の葉」(笹の実は粕)という名が派生しています。
※「洞庭春−どうていしゅん」「玉露−ぎょくろ」も酒の異名

酒の色から「山吹」(中世女性語) 「緑酒」(酒の美称−漢詩から)「縹醪−ひょうろう」(縹は薄い藍色)「漂玉」「碧香」「碧瀾」「春碧−しょうへき」「翠濤−すいとう」「翠物−すいぶつ」「黄封」「黄嬌−こうきょう」「夜黄−やこう」「金波」「金時−きんじ」「三白」「白玉腴はくぎょくゆ」「白杜−はくと」「白醴−はくれい」「清州」「紫霞−しか」「紫潭−したん」「松醪−しょうろう」(松の色)「松華」などがあり、他に酔った状態から「紅面」「紅霞−こうか」というものもあります。

花の名がつく名称も多く、「梨花春」「梨華」「薔薇露−しょうびろ」「蘭生−らんしょう」(蘭=ふじばかま)「麹蘗−きくげつ」「麹君」「麹也」「麹盞−きくさん」「菊水」「麹車−きくしゃ」「帛桑−はくそう」「桑落−そうらく」「桃花」「桂盞−けいさん」「酌杏−しゃくきょう」「馬桐−ばとう」「花露」「如華−じょか」「泛華−はんか」と美しいものも多いでしょ?

毛皮ファン向けには操り人形師(浄瑠璃?)楽屋言葉の「赤馬−あかうま」や、「香馬−こうま」「騎驢酒」「鶴觴−かくしょう」(觴はさかずき)「瑞雀−ずいじゃく」「烏程」(地名から)「卯歓−うかん」「鵞児−がじ」「酔龍珠−すいりゅうしゅ」があり、酒の漢字からですが、「水鳥−すいちょう」「三酉−さんゆう」「酉水−ゆうすい」「水酉−みずとり」なんてのもあります。
変わったものでは「芳蟻−ほうぎ」「瓊蟻−けいぎ」「縁觴素蟻−えんしょうそぎ」「玉蛆−ぎょくそ」「酌蛆−しゃくそ」「疑蛇−ぎだ」といった虫系もあったり・・・^^;)

他に十二国記ファンにとって面白いのは金波の他に「蓬莱春−ほうらいしゅん」「慶雲春−けいうんしゅん」「慶雲香−けいうんこう」「劉伶−りゅうれい」「舜泉」「三郎」(人形浄瑠璃)「麹李才−きくりさい」「雲泉」「雲液−うんえき」「黄雲」「玄水」「柳」(酒を入れた柳樽から)「洞中泉−どうちゅうせん」などはどうでしょう?

酒を擬人化した名称も面白いですよ。「天禄大夫−てんろくたいふ」「含春王」(蟹の異名を含春侯といい、酒の方が位が高い−『清異緑』)「逍遥公−しょうようこう」「酔侯」「醴泉侯−れいせんこう」「鴟夷丈人−しいじょうじん」(鴟夷は革製の酒器の意、丈人は長老路を敬っていう言葉−朱翼中『北山酒経』)「歓伯」「来伯」「太平君子」「破悶将軍」「神聖者」(賢者はにごり酒だそうです)「聖人」(三国志)「六君−りっくん」「酌君」も使えそうですよね。

他に個人的に気に入った名称をば、前述の他に「宜春−ぎしゅん」「羅浮春−らふしゅん」「風光春−ふうこうしゅん」「水堂春−すいどうしゅん」「軟脚春−なんきゃくしゅん」「海岳春−かいがくしゅん」「浮玉春−ふぎょくしゅん」と春がつく名称が多いですが、「秋玉−しゅうぎょく」「賛夏」は珍しいかも。でも、冬がない・・・
「索友」(人を求める)ならば「索郎−さくろう」は男を求めるか?(笑)
「上岸」「下岸」「南岸」「北岸」「東西」「百川−ひゃくせん」「風防」はなんとなく・・・
「なかれの泉」「なかるヽ霞」(歌言葉)「此の花」(江戸時代の酒銘から)と和風も負けていない。涙に喩えるところが憎いですよね。
「八功徳−はっくどく」(仏教語より)「摩倫−まりん」「喜會−きかい」「祈魯−きろ」「朋樽−ほうそん」「剣南焼香−けんなんしょうこう」は意味深く、「臘味−ろうみ」(十二月に醸す酒から広く酒の異名となる)「瑶漿」「玉醴−ぎょくれい」「玉薤−ぎょくかい」(隋の煬帝が造らせた美酒)「瓊飴−けいい」「硯水」「霞酌−かしゃく」「君下−くんか」「呉醴楚瀝−ごれいそれき」「黎衍−れいえん」「美醸」「香斟−こうしん」「柴潭−さいたん」「真珠紅−しんじゅこう」は美しいですよね。
それにしても、今回は無駄に長い酒蘊蓄、全部読む奇特な方はいらっしゃるのでしょうか(汗)

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