星の泡沫<うたかた>


月の底のように円い硝子の器に注がれる薄く翠がかった金の液体。それこそまるで月光を溶かしたようで、硝子の底から立ち昇る細かな泡沫は星のようだ。
口当たりのよい酒精。果汁とは違って糖分がないが、酒としては甘い。
「良いできだな。しかしこちらでシャンパンを飲めるようになるとは思わなかった」
主がこの酒のことを何と言っているのかわからぬが、泡の出る葡萄酒は星酒と呼ばれていた。つくることに成功した際、それを飲んだ者が「星がとけているようだ」と口にしたことから付いた名だ。
順調に復興を遂げる慶が経済の活性化を図り、地方の特産を盛り立てることになったとき、ある地方の特産が葡萄だけだったことから主が提案した試みだった。 星酒は今では十二国に広まり、開発した慶は酒造法の占有権を認められ、向こう数年は慶だけでつくることができる。その間に他国へこれを伝授することになっている。ようやく慶も雁に凭<よ>らず自立した一国とみなされてきた。
「主上のおかげで紅茄子<とまと>の売れ行きも良いようですよ。雁からぜひ教えて欲しいと書信が届きました」
紅茄子も主の提案だった。
慶の北部の夏に雨が少ないことを利用し、甘い紅茄子をつくったのだ。
「ああ。あちらで一度耳にしたんだ。涼しいところであまり水をやらないと甘くなると聞いて。紅茄子といってもいろいろ種類があるから、上手くいくかどうかはわからなかったが、成功してよかったよ」
運がいい、と笑う主の声に浩瀚は耳を傾ける。
シュワシュワと弾ける泡沫の囁きにも消えそうな柔らかい溜息。
それにぞくりとからだを震わせる。酒精よりも遥かに早く熱を上げるそれは、醒ますには実に惜しい酔いだった。
彼女の酒を嚥下する喉の動きも、それに併せて聞こえる音もすべてが心を蕩かしていく。そして思い出さずにはいられない。
たとえば唇。あの赤い唇が漏らす吐息。
たとえば瞳。あの碧の瞳が映す熱情。
次いで浮かぶのはあの滑らかな肌が泡立つさま。そして磨かれた爪が肌に食い込むときの感覚。
まざまざと瞼裏に蘇っては消え、体温が上昇する。からだを巡る熱を抑えることさえ楽しむ己に、重症だと笑う。眼を眇めて主をみやれば頬を染めて憮然としている。
「おまえ‥‥わざとだろう」
歯軋りしそうなほど悔しさの滲んだ声に、浩瀚はわけがわからずそのからだを抱き寄せた。
夜着の上から数枚着物を羽織ってはいるものの、それは浩瀚にとってなんの妨げにもならない。それを知っているから浩瀚は何もしなかった。真に彼を阻むものがあるとすれば、主の心、それひとつだけだ。
「何か私がいたしましたか」
低い声は普段の彼を知る者がいたら顔を赤くするに違いないほど甘い。だがそれを指摘する不粋なものはここにはいなかったし、陽子も指摘できるほど冷静ではなかった。
「‥‥浩瀚はどこまで陰謀なのかわからない」
拗ねる陽子に浩瀚は苦笑する。邪魔するものがいなければ、彼女のいう「陰謀」とやらを仕掛けることもないのだが、如何せん彼にはあまりに敵がいた。
「申し訳有りません。ですがただ一つの真実を互いにわかっていれば、後はどうでも良いとは思われませぬか」
「‥‥お前はわかりにくいんだ」
「それは、失礼を」笑む男に陽子はむっとして睨む。温厚篤実と噂された麦州の州侯が実はこんな奴だと、いったい何人が知っているのだろう。しかし、と陽子は溜息をつく。
「お前が噂通りの人物だったら、私は惚れなかったんだろうな」
嬉しいことを言ってくれる主に唇を重ねると再び主が睨む。
「だから、それ!その眼!」
赤く染まった頬が可愛らしい。
「私の眼が何か」
「誘惑するな!」
憤然とする主に一瞬言葉を失った。その隙をついて陽子が唇を重ねる。
心臓を鷲掴む碧の瞳。露に濡れた美しさに浩瀚は息を飲んでみつめた。
三度吐息が重なる寸前、主が囁く。
「誘惑するのは私だからな」
柔らかな口唇を貪って、浩瀚は思う。星に似ている、と。
「誘惑するのは貴女でも、主導権は私がもちます」
楽しさを押し隠して囁けば、案の上彼女は不満気な表情をする。浩瀚は素早く言葉を絡めとって飲み込み、主を抱き上げて閨へと運ぶ。褥へ下ろしたとき星酒を置いたままにしたことを思い出したが、彼はそれをすぐに忘れた。今見下ろしている少女は何をも凌ぐ存在だった。
そして再び思う、国の至高の存在である彼女は星を生むあの葡萄酒に似ている、と。血管の中で泡沫が踊る。ざわざわとした快感は彼を捕らえて放さない。行為に甘さなどあるはずもないのに、甘いと感じる。耳を傾ければ密やかな囁きが聞こえる。浩瀚はこの星の酒に酔う。
だがそれは、彼だけが知る美酒だった。


◇ ◆  終劇  ◆ ◇
This fanfiction is written by Hachiya Izumi in 2003.
[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.

和泉様のサイトSEVENTH BEEの400ヒットキリリクで書いて頂きました。嬉しいリンクのご報告を頂き、作品を拝見して酒蔵呪いの為に通いました。(笑) もっと気の利いたキリを踏みたかったのですが、狙った数字が踏めずに400でリクを申請したのです。せこいキリ申請にもかかわらず快諾頂けた上でのこの作品、これぞ海老鯛!とラッキーな暁光に浮かれています。
し・か・も!、わたしが書いた慶のシャンパンに素敵な名前まで付けて頂いて感動もひとしおです。「星の酒」に己の想いを重ねる浩瀚の心情がいいですよねぇ・・・。妖しい処がまたv
和泉様、改めまして旨い酒をありがとうございました。和泉様のサイト「SEVENTH BEE」へはリンク集からどうぞ。

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