瑞 酒



それは、秋も大分深まったかというある日だった。
思い立って陽子は、すう虞を駆ってとある地方に来ていた。

・・・・そろそろじゃないかな。

期待を胸に降り立ったその、果樹園とおぼしき土地からは芳しい香りが漂っていた。
残念ながら蓬莱ではそれに馴染むまでの年齢を重ねなかったけれども。
不思議と懐かしい匂いだった。
既に実のない果樹の下をくぐり、匂いの源を求めて歩く。
近付くほどに、甘酸っぱい香りの芳しさが増す。

やがて、人々の騒めき声が聞こえて来た。
「なんだろう?」
ここは農村地帯で、街市の喧騒などあるはずもなかった。
けれど、聞こえてくる声は大勢の人間が集まって騒めいているような声であった。
前方から歩いてくる、水汲みに来たとおぼしき農婦に声をかけてみた。
「あの声は、なんの声なのだ?」
「おや兄さん。余所から来たのかい。」
人の良さそうな農婦はにっこり笑い、だが陽子をじっと見つめると慌てたように訂正して、そして教えてくれた。
「こりゃ失礼。よく見りゃお嬢さんだ。この村じゃ今日が、樽開きの祭りなんだ。」
その答えに、陽子の顔がぱっと明るくなる。
それこそ、陽子が待っていたものだった。

・・・でも。
「祭りになんかなっているの。樽開きが。」
「ああ、新種だからな。主上が、苗木を植えて下さった葡萄が、やっと酒になった。」
農婦は明るく笑った。
・・・良かった。
・・・ちゃんと、実は成ったんだ。

雁国で改良されたという葡萄の新種を、この地域を選んで試してみた。
もともと廉王が、温暖ではないが湿度がある地域でも育つかもしれないと雁国での試作を依頼したものだったが、慶でも育たないかと考えて陽子が苗木を買ったのだった。
以前は葡萄の産地で知られていたが、国が荒れるにしたがい果樹園も廃れ行く一方だったこの地域の民と一緒に鍬を取って、景王自身が苗木を植えた。
「うまい酒になったら俺を呼べよ。」
苗木を引き渡す時に延王は陽子にそう言った。
「収穫の時ではなく、ですか?」
指摘してやった陽子に、延王はにやりと笑って答えたものだ。
「収穫の手伝いも悪くはないが、こいつが美味い酒になった時に一番乗りしたいからな。」
「なんだよそれ、すげー美味しいトコ取り。」
横から延麒が口を尖らせて、延王の背中を叩いた。

「ちゃんと教えてあげないと恨まれるからな。」
陽子は呟きながら、なおも歩く。
長老に頼んで、樽から開けたばかりの葡萄酒を壷一杯分くらいを貰い受けて帰るつもりだった。それを小さな壷に移し替えて雁国に送ってやれば、延王も満足するだろう。
苗木を快く売ってくれた雁国への義理もしっかり立つというものだ。

騒めき声を目指して歩く陽子の目に、人々が集まっている光景が見えてきた。
何やら、縄で括った広場を舞台に、催しが行われているようだった。
見れば、剣技の稽古とおぼしき打ちあいが中で繰り広げられている。
周囲に集った村人からは「いいぞ」「行け」といった応援の掛け声がかかる。

葡萄酒の樽開きになぜ剣技が?

いくばくかの疑問を感じながらも、陽子は親しげに村人の一人に声をかけた。
「何が起こっているんだ?」
対して、村人が明るく答える。
「ああ、この勝負に勝った者が、一番に今年の新酒を飲めるんだ。」
「へえ。」
樽開きを祭りにするには、面白い趣向がなくてはならぬということだろうか。
誰が考え出したかわからぬが、楽しいことは出来るかぎり楽しみたいと思うのは庶民の常。楽しみが楽しく在るというのも、国が健全である証だ。

村人たちの楽しそうな顔を眺めようと、ひょいと顔を覗かせた陽子の目に。

・・・・え?

俄には信じがたいものが映った。

「ほら、あいつさ。」
村人が指差す。
衆目を一身に浴びて木刀を振るう一人の猛者を。
「あいつが言いだしたのさ。剣技を競い、一番強かった奴が一番に新酒を味わえるというのはどうだろう・・・とね。」
「そうそう、それでそいつは面白れえ、ってな具合になったってわけだ。」
「しかしあいつ、風漢って言ったっけな。自分も相当強いんだよな。」

陽子は秘かに拳を握りしめる。
眉が自然、苦々しげに顰められた。
「犬でさえ、お預けと言えばおとなしく待っているものを・・・。」

「どうした?皆もう降参か?」
得意げに、真ん中で仁王立ちしている男を陽子は睨みつけた。
「俺の勝ちでいいのか?」
挑発するかのような男の声に、周囲からは溜息が漏れていた。
「ぜんぜん息も上がってないんだから、適わねえや。」

当たり前だ。
農民相手に、これでも相当な手加減をしているはずだろう。

陽子はすいと進み出た。
横に立っていた村人の手から木刀を取り上げると、男にそれを向けて言った。
「慶国で初めての葡萄酒を、他国の者に横取りされるのは好かぬ。お相手願おうか。」
群集がおおーっとどよめき、喝采を上げる。

男はわずかに眉を上げた。
そして困ったような顔を一瞬だけ陽子に向けた。
「問答無用!」
陽子は木刀を振り上げて、思いきり立ち向かった。
自分が本気で向かっていったところで、男はかすり傷ひとつ負わないとわかっていたからただ、思いきり木刀をぶつけた。

ただの退屈しのぎだったのかもしれないが。
このお遊びに乗ってやるのが礼儀のような気もしたから。

「困ったな。」
男が苦笑して陽子に囁いた。
「何がです?」
つとめて剣呑な声を発して陽子が問うた。
「最後の猛者に、勝ちを譲って祭りを盛り上げる台本だった。けれどお前が相手じゃ、手加減したら殴られそうだ。景女王。」
「むろん加減など無用です。」
「言ったな。」
不思議と愛嬌のある笑みを浮かべ、男は木刀をはらう。
男の木刀をかわして、陽子は離れた。
「他国にまでやってきて、なんの台本をお書きになったのです。」
問うてみれば。
「この地の葡萄酒を有名にする、一大計画を練ってみたのだ。」
ふんぞり返って笑っている。
「有名に・・・?」
「残念ながら、高級な葡萄酒の味とは長い熟成がもたらす深い蕩味ということになっている。」
「そうなのですか。」
「こちらでは一般にそうなのだ。尤も、俺も葡萄酒の蘊蓄にまで強くない。範の野郎にでも聞いてやるがいい。得意げに教えてくれるだろう。」
好かぬ人物を持ちだしたところで、男の顔がやや苦々しげに歪んだ。
だが、すぐに悪戯めいた笑みに変わる。
「摘んだばかりの葡萄を、少しばかり寝かせて出来るこの葡萄酒のさっぱりした味に、それほどの高値はつくまい。そうすると、何か話題をくっつけて名前を売れば遠方からでもこの味を求めにやってくる。」

何だか。
煙に巻かれたような。

釈然としない気持ちのまま、陽子が木刀を構え直した時。

「それまで!」
という、老人の声に辺りが静まり返った。

「閭胥・・・。」
「もう良かろうよ。それなる御仁も、女子相手にそこまで本気で振るうこともあるまい。」

閭胥の一声に、村人から落胆とも安堵とも取れる溜息が漏れ出た。
「あれ、女だったか・・・?」
と、初めて気付いたような顔をする者もいる。
「すみません。延王。」
小さく、当人にしか聞こえぬくらいの声で陽子が呟いた。
「何だ?」
「ばれてしまいました。」

以前ともに隣で鋤を取って苗木を植えた閭胥はそれでも、自分の胸だけに収めてくれた。
「噂には聞いとりましたが、天晴れな主上じゃ。」
溜め息ひとつで、許してくれた。

「さあ陽子。」
延王は、村人が恭しく運んで来た樽を指差す。
「この葡萄の実が熟成した、慶国で最初の酒だ。」
閭胥が槌で叩いて開けた樽からは、なんとも甘酸っぱい香りが漂った。
それは、陽子が葡萄酒の匂いと想像していたものと少し違った。
蕩けるというよりは、目が覚めるような新しくて瑞々しい匂いだった。
充分に熟れてから収穫したはずの実から出来た酒だが、間違って早く摘みすぎたのではと思うほどに。
「おい、杯がないぞ。」
慌てる村人を制すると、陽子は水禺刀を抜いた。
そして樽の中に差し込む。
引き上げると、刀身から瑞々しい香りが滴り落ちた。
陽子は、いささか大袈裟に、その滴り落ちる酒の雫を口に入れた。

甘酸っぱい液体は、さっぱりしていた。
あまり口の中に残らない、言うなれば葡萄酒らしからぬ淡泊さがあった。

「俺にもくれ。」
屈託の無い笑顔の男は、とりあえず睨め付ける。
「待っていて下されば、ちゃんと持って行きましたよ。」
「壷に入った酒なぞ風情がない。」
飄々とそんなことを言い、男は陽子が手にした刀を手に取るといきなりその刀身を舐めた。
「何をするんですかっ!」
「面妖な飲み方だが悪くないな。」
嬉しそうに笑いながら、男は遅まきながら用意された杯に酒を注ぎ、まるでわが物のように村人に飲め飲めと言って配る。
「もう。」
陽子は自然と口元が綻ぶのを感じた。
辺りは、既に宴会の雰囲気だ。
「気をつけろよ。さっぱりしていて飲みやすいが酔いやすいぞ。」
陽気に声をかける余所者の男に、村人の一人が言った。
「飲みやすいほうが大勢に飲んでもらえる。それでいいんだ。」
この地は、葡萄酒の産地で知られているわけではなく。
しかもこの葡萄の苗木は新種だから、まだ海のものとも山のものともつかないというのが一般の認識だろう。
まずは、大勢に飲んでもらうこと。

「来年からも剣技の勝負に勝った者が一番に飲めるということにしたらどうだ。」
男の提案に村人たちは頷いた。
「そうだな。他の地域からも物好きが集まってくれるかもしれない。」
「あんたもまた来てくれるだろう。」
期待の目を向けられた男に、陽子がじろりと険しい視線を向けてみせた。

この男に毎年出られては、毎年一番を持っていかれかねない。

「考えておこう。」
気を持たせる返答をして、男は笑った。
村人も笑った。
景王も笑った。

「先につまみ食いをされた方には、壷に入れたものはお持ちしませんからね。」
祭りに盛り上がる里を後にしながら、本気ではないながらも意趣返しに言ってみた。
この祭りが終わった後、金波宮には樽が届けられることだろう。
それを移し替えて、おそらく景麒か浩瀚を連れて、正装して雁を訪問することになるのだろうが。
「それは残念。」
少しも残念ではなさそうな口調で延王は笑った。
「では、ここでもう少し貰っておくかな。」
そして、いきなり陽子の腰を抱く。
驚く間も与えず、口付けた。
「!」
悪戯好きの男は、舌先まで悪戯に、陽子の口の中を這い回る。
「んんっ・・・。」
離そうともがく腕は封じ込まれ、舌は執拗に、まだ葡萄酒の香りの残る陽子の舌に絡まった。
「いきなり何するんですっ!」
やっと離したところで今度は腕を掴まれて、柔らかく抱き寄せられた。
「甘かったぞ。」
耳元で囁かれた声に、陽子は顔が赤くなったのを見られたくなくて男の胸に顔を埋めた。
「馬鹿者。そんな風にされたら攫いたくなるだろうが。」
苦笑しつつ、男はなおも言葉を紡ぐ。
「あの酒は、お前の味で、赤王朝の味で、いまの慶国の味だ。」
新しくて、瑞々しくて。そして。

値は張らないが美味で、それゆえ万人に愛される。

「あの酒はきっと有名になる。名産にな。」
「まるでご自分の手柄だとでもおっしゃりたいご様子。」
「ははは。」

自分は手助けしたに過ぎないと言って笑い、延王は空を見上げた。
陽子も見上げた。

秋の空は、澄んでいた。


− 了 −
This fanfiction is written by H.v.H in 2003.
[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.


酒蔵ファンにはご存知、蔵主さまであらせられる、はー様ことH.v.H様の棕櫚の庭園3周年記念配布作品です。記念日は11月23日なのですが、なんとっ、この日は20万ヒット記念ともなりました。改めまして、おめでとうございますm(_ _)m
「黎光」以来、はー様の尚陽は爽やかで洒脱で惚れ込んでますv
それに、映画ファンらしい情景描写や台詞が素敵なのですよ〜♪

ボジョレーはフランスのボジョレー地方で作られるものだけに限定され、そこで作られるガメイ種という葡萄は2ヶ月で熟成されるのです。その代わり、何年も熟成する種類ではありません。ボジョレーにも何年も熟成させるワインがあり、ガメイ種の早く出荷されるワインは正確にはボジョレー・ヌーヴォといいます。通常は赤ですが、出荷数は少ないけど白もあるらしいです。日本では取り扱わないところを考えると、そんなに美味しいわけではないのかな、と思っているのですが・・・
その年の葡萄の出来を見るというこのヌーヴォ(新酒)は他の国でも作りますが、ボジョレー・ヌーヴォの11月第3木曜日午前0時に解禁、早く飲むほど粋である、という販売戦略がヌーヴォの代表として有名になっているというわけです。
どうです? これではー様の作品のボジョレー・ヌーヴォたる由縁がおわかりになったのではないでしょうか?
めれーなさんの初物をいただくという妄想を具現化してくれたボジョレー・ヌーヴォと対をなす、本来のボジョレー・ヌーヴォらしい爽やかな酒もまた美味しいですよね♪

さらに付け加えるならばこのボジョレーは、めれーなさんち(banqueteの管理人様)の掲示板で「誰か尚陽ボジョレー書いてくれないかな〜♪」とめれーなさんとわたしでお願い(?)したら、はー様が乗ってくださり、解禁日から遅れますが配布作品として書きます、とお約束してくれていたのです。待ち遠しかったです。もちろん公開されて即、攫ってきましたよっ♪
駄菓子か〜し、そのおかげで氾陽ボジョレーをわたしが書くハメに〜〜〜! 汗っ
お二人のボジョレーに挟まれて、身の置き所がないわたし・・・(でもっ、めれーなさんの挿し絵が救いだわ ^^;)
それにしても、はー様のところでめれーなさんのボジョレーが書くことに決まって、めれーなさんのところではー様が、そして、呪った本人もしっかり返り討ちに合うとは、因果応報ですなぁ・・・
はー様にはやはり、
Ich liebe dich v とお伝えしたい・・・←一度やってみたかった(笑)
蔵主様宅『棕櫚の庭園』へは「酒蔵別館」(酒蔵直通)かリンク集からどうぞ。


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