陽光の越幾斯(エキス)


 夏の真昼、うだるような暑さと強い陽射しの中、陽子は慶国南部、紀州の街道沿いの茶店で休みをとっていた。連れているのは使令を除けば大僕ただ一人。大きく張り出した日よけの下は風通しがよく、道中にかいた汗もやがて引いていく。
 紀州は稲作地帯だ。目の前には青田が広がり、その先に廬家八戸の屋根が見える。この季節、田畑の雑草取りや水路の均土に忙しい廬の人々も、昼日中の暑さを避け、何処かで昼寝でもしているのだろう、人の気配は全くなかった。
 茶店の留守番の老女も半分眠っているかのようで、近くには黒い犬が敷石に腹ばいになり、だらしなく舌を出してあえいでいる。大僕はというと、些か耳が遠いらしい老女に飲み物を注文しようと悪戦苦闘していた。

 陽子は人心地ついて、深く息を吸い込んだ。
 空気には太陽の熱と焼けた砂埃がとけ込み、むせ返るような青い匂いがした。青い熱(いき)れ臭さはさまざまな植物の臭いに違いない。最も強いのは稲の花の匂いだ。稲は葉ばかりにみえて、やがて稲穂となる花房を葉の隙間から少しだけ覗かせている。やがて花は実を結び、この強い陽射しに助けられ豊かな実りとなるだろう。
 これはその約束の匂いだ。と陽子は思った。
「なにが楽しいんだ。」
 ようやく老女と話がついたのか、虎嘯が戻ってきて、我知らず微笑んでいた彼女を見ていった。陽子は少し笑うと、目を閉じてゆっくりと息を吸い込んだ。
「夏の匂いがする…」

 陽子は自国の民の生活を知らないまま王になった。彼らの日々の暮らし、生活習慣、廬や家の仕組みや不文律――慶国に生まれてきた者ならば当然知っていることを知らない。そんな彼女が金波宮の玉座に座って官吏から報告される言葉を頼りに、民の生活を理解するのはたやすいことではない。作物の収穫量、税の石高…それはそれで大切なことなのだろうが、今の彼女が本当に知りたいことではないのだ。
 それよりももっと知りたいことがある。
 人々は何時目覚めて、まず何を気にするのだろう――今日の天気だろうか、どんな風が吹いているかだろうか。眠りにつくとき、何を考えるのだろう――今日をつつがなく過ごせたことの喜びだろうか、変わらぬ苦しい明日への諦めだろうか。それを感じることが出来なくて、民を慈しむことなど出来ないと思う。
 今、こうして彼らと同じ空気を呼吸していると、いくらかでも同じ気持ちになれるような気がする。それは心地ちのよいものだった。

 いつのまにか、涼をとっている二人の前に、大きな背の高い青磁の盃が置かれていた。盃からは薄荷のような植物臭い匂いがただよっている。いや、薄荷というよりは蓬莱の歯磨き粉の臭いであり、あたりに漂う青臭さを凝縮させたような強烈な臭いだ。それは植物が動物に食べられないように開発した苦くてまずい多種の成分、アルカロイドの臭いだった。
 陽子は青磁をとり、底に入っている黄色い液体をいぶかしげに見つめた。
「なんだか妙な臭いだな…これは農作業の合間にみんなが飲んでいた酒なのか?」
「そうさ、夏の仕事にはかかせない酒なんだ。チョット待ってくれ…」
 虎嘯は慌てて席を立つと、また老女のところへと何やら頼みにいった。

 黄色い透明な液体の香りは、はじめは臭いと思ったが、なれてみると少し甘く、なかなか悪いものではないような気がしてきた。
 その色は麒麟の金色の鬣に近い。特に淡く白っぽい彼女の麒麟の髪の色に近いように思える。彼女は自国の宰輔を思い出して苦笑した。

 和州の乱の前に始まった陽子の慶国実地研修は、乱をもって終わってしまった。一つの区切りとして納得出来ることなのだが、振りかえってみると沢山のことを遣り残したように思えた。そこで、里で暮らすことは無理でも、視察として民と同じ目の高さで日々の暮らしを見つめたいと思った。
 ようやく視察がかなったのは半年ほど前。彼女が下山することを心配する宰輔に、民を知らずに導くことなどできはしないじゃないかと説得し、どうにか身軽な状態で短い視察を繰り返すことを認めさせた。そのときの苦労たるや、語るに尽きないものがある。彼は視察自体には反対はしないと言った。けれど、日程や警備についてはいつもの心配性なところをみせ、彼女を辟易させた。

「この色を見ると、渋面のお前が目に浮かぶよ。」陽子は独り言ちた。
 そして盃に口を付け、黄檗色の酒を口に含む。
 そのとたん、口の中に広がる、薬草の刺すような苦味とじんわりとした渋味、そしてしつこいほどの甘味―――ただただ、この味から逃げ出したくて飲み下すと、咽喉が焼かれるような痛みがあった。この酒は今までに経験したどんな酒よりも強い火酒なのだ。

――不味い!
 陽子は激しくむせこんだ。景麒の渋面が脳裡をよぎる。

「アー!飲んじまったんのか!?」
 虎嘯が片手に大きな水差しを持って戻ってきた。
「そのまんま飲んだら、不味かったろう―――これは、うんと薄めて飲む酒なんだ。」
 陽子は水差しを受け取ると、たまらずそのままで水を飲み込んだ。
 それでも独特の甘味と苦味が舌に残っている。

「トンでもない酒だぞ、これは!」
 陽子は目に涙を浮かべて言った。

「しょうがねえなぁ…だから、これは薄めて飲むものなんだって。十二国一の強さを誇る酒なんだから、むせちまうサ。そのまま飲むと咽喉が焼けて使いものにならなくなっちまうぞ。」
 虎嘯は小卓を整えると、残りがわずかとなった陽子の盃に半分ほど水を注いだ。
 透明な黄檗色だった液体はたちまち黄濁する。強いアルコールに融けこんでいた植物エキスが薄められ分離して出てきたのだ。酒は白い雲母の粉を含んだかのようにみえ、キラキラと輝いた。
「こんな不味い飲み物には生まれて初めてだ…本当に民はこの酒が好きなのか?なにかの間違いじゃなか。」
「そんなに不味くはないだろう…」

「お嬢さんは、はじめて飲まれたのかぇ―――」
 奥にいた老女がヒョコヒョコとやってきて、ゆっくりと隣の小卓に腰を下ろした。
「うちで出している酒は近郷近在評判の酒じゃよ。一番強い味は本茴香のもの、茴香、大茴香これは咽喉と胃のくすりじゃ。それから当帰は血のみちの薬――あとは甘草、胡妥実、木密、カミツレ、鍬形草、山薄荷…ワシが若い頃は全部覚えておったが、忘れてしまった―――これさえ飲んでおれば、腹具合がよくなり、暑気あたりなんてものはおこらんよ。」
 老女は陽子に目で酒を薦めた。
 陽子は恐る恐る盃を手に取る。
「かき混ぜていないから、上の方は薄い。それをそっと飲む分には驚くような味じゃねぇから。」虎嘯が言い添える。
 薄くなった酒はさっきよりも甘い匂いがした。黄濁した液も上の方はいくぶん澄んでいて、薬草の成分がキラキラと輝いている。そっと口をつけると、甘草のやわらかな甘味と薄荷のすっきりした香りが広がる。茴香の苦味も穏やかで、なんだか体に好いものを飲んでいるような気がするから不思議だ。
 それが表情になった現われたのだろう。老女は満足げに微笑んだ。
「どうじゃ。美味いじゃろ。そうやって飲むと口当たりがいい。じゃが、強い酒であることはかわりないゆえ、飲む量にはお気をつけ。お嬢さんのような方が飲むような酒ではないからのぅ…」
 そう言い置いて、またゆっくりと店の奥に入っていった。
 敷石の黒い犬は視線を上げパタパタと片耳を振ふった。そして陽子を見つめたが、目があうとそ知らぬ顔でまた居眠りをはじめた。
「薄めると、ずいぶんと感じが違うんだな…これなら暑い盛り、みんなが飲んでいるのがよくわかる。」
 陽子は続けて一口、二口と飲んだ。慣れてしまえば、水のように薄いはじめの味が頼りなくなる。
「加えて、この酒は余り手がかからないので安い。どっと薬草を詰めて、醸せば出来あがりだ。うんと強い酒だから出来あがってからも変質せずに何時まででも保つ。上等な酒のように保存に手がかかるってことはねぇ。」
 虎嘯は嬉しそうに言って、自分の盃の半分ほどを空けた。そして、水差しから水を継ぎ足し、また一杯にした。
「こうやって、また一杯にできるのもいいな。」
 これには陽子も笑わずにはいられなかった。

 慶国南部ではこの酒は民の間で最も一般的な酒だという。景では火入れの技術が充分にいき渡っていないので、米酒は劣化が激しく流通に適さない。騎獣を使っての空輸などをとるから軒並み高価なものとなる。民は商品としての酒など滅多に飲めるものではない。彼らが飲むのは、この雑味の多い薬草酒なのだ。

 陽子は減った盃に、水を注ぎ足す。
「景麒…心配しているかな。」
 黄濁した酒は白っぽくなり、彼女の麒麟毛色を思わせたる。
―――原液の強烈な苦味だってそっくりじゃないか。あいつの諫言はこのぐらいの強烈さはあるな。
 そして、また一口。
―――でも、いまでは少しはマシになった。小言程度は私も慣れたし…
 薄くしても舌には一瞬刺すような感覚がある。それは夏の陽射しの味。
 網膜を焦がすようなその陽射しを押しこめて、秋の涼しさ冬の冷たい乾燥、春の湿潤から遮断するのだ。そしてある日、樽が開かれその陽射しは盃に注がれ、冷たい水に出会う。

『―――天地の重なりは陰陽であり、その気は四時となり散精して万物となります。』
 登極して、金波宮に向かう玄武の上で、常世の仕組みとして景麒はそんなふうに語った。
『―――積陽の熱気は火を生じ、火気の精は日となり、積陰の寒気は水となり、水気の精は月となり、日月の溢れて精となるものは星となりました。―――』
 そんな言葉を陽子が理解できるはずもないのに、彼はただ生真面目に彼女に説いたものだ。
―――それって、こういうことだろ。酒になった陽射しが月の水気に出会う。陰陽はまた混沌に戻るわけだ…。そして人の糧となる。
 景麒の言った意味はそんなことではないとわかっているが、その思いつきはなかなか愉快なことのように思えた。
―――帰ったら、おまえに話してやらなきゃナ。

 陽子は盃を空けた。

 その酒を、陽子の生まれた世界ではパスティスと総称する。
 そこでは夏の暑い日、ブドウ畑の農作業の合間に、やはり同じようにこの酒で憩う人々がいる。泥と汗にまみれた作男達の咽喉を潤す酒。シャンパンなどはまともな人間の飲むモノではないとヤニ臭い息で語り合う。

 この慶国の南で、蓬莱のある世界のどこかで…
 陽射しの酒は月の水気とあって地に在る人々の活力となる。

− 了 −
This fanfiction is written by AKAINU in 2003
[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.

うぎゃ〜!、赤狗さん愛してるわ〜〜〜><!
陽子&虎嘯で、民間で飲まれている酒を飲むというシュチエーションは読みたかったのですよ〜♪
さすがわ最強の放浪作家様v、どうしてこうも読みたいものを書いて下さるのか、と憎い限りです。
お題は「毛皮&酒」だったのですが、陽子が景麒を思う処に毛皮を感じて下さいと仰って下さいましたが、いいです!「毛皮&酒」以上に読みたいお話しを頂けて、満足度は200%!しかも、赤狗様らしい中国思想も盛り込まれ、酒の選択も、それを常世に当て嵌めるあたりも、最高ですvvV

さて、酒蘊蓄も当サイトの名物ではなかろうか、ということで、パスティスのお話しをば・・・
酒蔵本館でco様がお描きになって話題を呼んだアブサンは殆どの国で発売禁止になるほどの毒性を持った酒なのです。そこで風味を似せて作られたのがこのパスティスで、「似せて作る(se pastiser)」という意味があります。非常に癖のある酒なので、日本での人気は今イチらしいのですが、全世界的に見ればバーボンのジムビームやゴードン・ジンよりも人気のある酒なのだそうです。
パスティスで最も有名なのがリカールとペルノで、赤狗様が取り上げたのはスターアニスの入ったペルノです。アニス酒と言えば聞き覚えのある人もいらっしゃるのではないでしょうか?
かの文豪ヘミングウェイもこれをシャンパンで割って愛飲しており、パスティスをスパークリングワインで割ったカクテル名はその作品から『午後の死』と名付けられています。他にもドランビューとカシスリキュールで割った『マクベス』は真っ赤な妖しい色をしています。(妄想が沸いてきません?)パスティス初心者向きにはオレンジジュースで割った『パスティスオレンジ』が飲み易いそうですよ。

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