余計な一言



 衝立を前にして冢宰は首を捻った。
 執務室の入り口に置かれた衝立は一本の大木から作られていた。深い飴色をしていて年代物という話だが、さしたる価値も言われも無く、衝立の機能を充分に有しているので使われているだけの物だ。その衝立の向こうには彼の主が政務に励んでいるはずだったが、一向に応答がなかった。
「奏上したきことがあり、まかりこしました。主上はおわしますか」
 在室を確認する声は静かに響く。普通、応(いら)えがなければ不在だと結論付けて帰るか大人しく主の帰りを待つものだが、浩瀚はどちらの手段も選ばなかった。
 何やら向こうにはひとの気配があり、物音がする。おそらく来室者に気付かぬだけなのだろうと思ったのだが、中の様子は窺い知ることは出来ない。
 ならば出直すか。他の官ならそうするに違いない。しかし、彼は衝立の向こうに足を踏み入れて様子を確かめることにした。
 浩瀚の眼前、衝立の向こうには雪原が広がっていた――ように見えた。
 一瞬、本当に雪が降ったのかと錯覚してしまったが、落ち着いて見直してみればそこは間違いなく王の執務室で、雪と思われたのはあちらこちらに散乱している白い紙だった。
 彼は片膝をついて一枚だけ拾い上げてみるとそれには鮮やかな朱印、御璽が押されている。紙は紙でも公式書類だった。
 主上はどちらだ。
 浩瀚は辺りを見るが、緋色の髪の女王の姿はどこにもなかった。代わりに執務机の方からガタガタという音がした。
(あちらにおいでか?)
 彼は書類を踏まないように気をつけながら机の影に足を向ける。
 と、そこには家捜し中の泥棒宜しく、引き出しの中をかき回している少女の姿があった。
 浩瀚は軽く息を吐いた。
 「もしや」という事態に陥っていなかったことへの安堵八割、この状況を作り出した彼女に対する呆れ二割を合わせた感情は、彼を小さく笑ませると次に主へ声を掛けさせた。
「主上、如何なさいました?」
「きゃーーーーっ!!」
 出し抜けに放たれた女王の悲鳴が、冢宰の鼓膜を針のように突き破って抜けていった。絹を裂くような声に、思わずよろめいた浩瀚であったが咄嗟に掴んだ書卓のお陰で何とか踏み止まることに成功した。
「………っ」
 陽子は浩瀚を浩瀚は陽子を、と互いに互いを驚かせてから数秒の後、第一声を放ったのは陽子の方であった。
「な、何だ。浩瀚か……吃驚した」
「驚いたのはこちらも同様」
 丈夫が売り文句の仙でも鼓膜は繊細に出来ているらしく、悲鳴通過後も酷い耳鳴りがしている。浩瀚は心持ち眉根に皺を寄せた。
「悲鳴などお上げになられて、一体何がございました?」
 王の大事は国の大事へと嫌でも繋がる。当然のように口に昇ってきた質問を発した浩瀚であったが、彼女は紅葉を散らして俯いてしまった。
 浩瀚は溜息を吐いた。
 言いたくないのだという意思は充分に伝わっているが、これではどうしようもないではないか。
「黙っていらっしゃっても何も解決は致しませんよ」
 所在なさげに床に散らばる書類を集め始めたその手を見つめて冢宰が言うと、ぴたりと女王の動きが止まった。
「‥えたんだ‥‥」
「? もう一度お願い致します」
 陽子の声は耳鳴りの所為で浩瀚にははっきりと届かない。蚊が鳴くような声では尚のことそうだった。
「だからっ! 官吏の名前を間違えたんだ!!」
 二度も言わせるなと叫ぶ彼女に、浩瀚は軽く目を見開くと、王の執務机にある大判の紙を一枚取り上げた。手にしたその紙は他の書類とは異なり、図のようなものが描かれている。
「どちらをお間違いになられたのですか?」
「‥‥ここ。正しいのはこれ」
 手にした二枚の書類のそれぞれを力なく陽子が指し示すと、浩瀚は素早くその先を辿る。暫く図と書類を忙しなく見比べると、彼は低く呟いた。
「確かに、違いますね…‥」
 彼の手にある図が書かれた紙には、細かい官位と役職。そしてその地位にある者の名が書き込まれていた。それは官位や役職を把握し切れていない陽子の為に作成したのだが、ここ数年、下の人事異動が激しいので彼にとっても便利な物であった。しかし、
「こちらの図の方を改めるのを忘れておりました」
便利な物も正確性を欠いては意味がない。浩瀚はひとつの官職の前任者の名を消し、それから就任したばかりの官の名を書き改めるのを忘れていたのだ。
「失敗してしまったものは仕様がございません。後でもう一度作成し直しましょう」
 深刻そうな告白の中身が大したことではないことを知って、彼は肩から力が抜けるのを感じた。手間は掛かるが、取り返しのつかない事態を考えれば何と言うことはない。
 大仰な慌てようにこちらも感染してしまったなと苦笑しかけた時、陽子は言い辛そうに、「言い忘れていたんだけど」と浩瀚を空目に見た。
「記憶が曖昧でよく覚えていないんだけど……多分、前に纏めて渡したのも間違ってると思う」
 前言撤回。
 浩瀚は胸の内で漏らした言動を自ら取り消し、そして己の考えの甘さを知る。冢宰の予想を覆すことに女王は見事に成功した。
「調べてみたら、同じ官に渡す書類一切は殆ど同じ名前で書いていたんだ。最初の内は正しく記載された書類を見ながら書いていたから間違いはなかった(と、思いたい)けど。でも途中からは確認するのを怠るようになって‥‥新しく就任した官の名前は前任者と似てただろう? 姓は同じだったし、名の方も読みは違うかもしれないけど字は何となく……」
 ケアレスミス―――不注意による間違いというやつである。
 訪(おとな)った時、散乱していた書類は誤字脱字点検の為に広げていたものだったのだ。理由は了解した。
 これは思いの他厄介なことになりそうだ。
 宮廷内の女王に対する不信感は未だに根強いものがある。間違いとはいえ、前任者の名前のまま書類を送ったとなれば、明らかな当て擦りだと取り、そのことを吹聴することは目に見えていた。手を回そうとしても、業務処理を早める為に余計な手続きは省けという単純且つ明快――しかし本人は画期的だと考えている――な勅命が裏目に出て、既に届いてしまっているだろう。
「心労で景麒が倒れるかもしれないな」
 浩瀚としては台輔よりも項垂れている彼女の方が心配である。華奢な身体がこうして見ると捨てられた幼子のようで何とも頼りなかった。
「一度してしまったことは元には戻せません。政務でお疲れのご様子、少しご休憩なさいませ。後のことはそれからに致しましょう」
「うん」
 失敗で打ち拉(ひし)がれているのか、陽子は大人しく頷いた。そっと引き寄せると呆気ないくらいに腕の中におさまる。
「迷惑ばかりかけるな‥‥」
 優しく頭を撫でられながら陽子はぽつりと呟いた。
「悪いと思っている」
「迷惑をかけない王の方が稀でしょう。王は幾らでも臣下に迷惑をお掛けになっても宜しいのです。少なくとも」
 と言いかけ浩瀚は薄く笑む。
「私に対しては許されています」
 意味深長な物言いに、陽子は頬が熱くなるのを感じる。男の胸に頭を預ける形で顔が見えないのは幸いだった。
「どうせ、迷惑掛けても良い代わりに説教が待っているんだろう?」
 照れ隠しのつもりで妙に素気無い口吻(こうふん)になってしまった。
「迷惑の度合いにもよりますが、今回はお望みで?」
「遠慮しておく。景麒の他に浩瀚からも貰うんじゃ、身体が持たないよ。それより、後任の官には悪いことした。よりによって前任者の名前を書くなんて、完全な嫌がらせにしか思えないだろうな‥‥」
 ううう、と唸る陽子を浩瀚は覆いかぶさるように抱きしめた。
「今日から勉学の時間をもう少し増やすことに致しましょう」
「……うん、そうする」
 抱きしめられると、男の官服に焚き染められた香の匂いが鼻腔をくすぐる。頭を撫でられ、抱きしめられ、香りを嗅ぐことで落ち着いていく自分がまるで小動物のようで、陽子は少し愉快になった。
「後で、謝りに行こうかな‥‥」
「それはお止めになられた方が宜しいかと存じます」
 気持ちは汲んでやりたいが、浩瀚はやんわりとその考えを却下した。
「念の為にお聞き致しますが、まさか私の名も間違われておられますまいな?」
「心配だったら、邸宅に帰って私からの個人的な手紙全部を読み返してみれば良いんだ」
冢宰の問いはどうやら不興を蒙ったらしく、女王の声は尖っていた。「前々から思っていたんだけど、浩瀚てかなり意地が悪い」
 横を向いたのが至高の地位にあるひとであっても、彼にとっては愛しい少女である。「そうでしょうか」と切り返し、笑い含みに言った。
「ところで、主上もあのようなお声を出されることがあるのですね」
 「あの声」とは悲鳴のことである。男と誤認されることが多い彼女でも、悲鳴はしっかり女だった。
 くつくつと笑声が零すとほぼ同時に、顎を狙って下から肘が突き上げられた。彼は右手でしっかりと掴むと、折り畳むようにしてそれを彼女の鳩尾(みぞおち)の近くに下ろさせる。陽子の腕は最後まで反抗的にしていたが、力較べをするにはあまりにも分が悪いというもの。結局、右腕は封じられてしまい、浩瀚に無防備な背後を許すことになった。
「とても御可愛らしい声でしたよ」
 耳から髪一筋ほどの距離で声を流し込まれた彼女の身体はびくりと跳ね上がる。斜(はす)に見る真紅の睫の震えがあまりにも初々しく思えてならず、浩瀚はついつい要らぬ台詞も口にしてしまった。
「お元気そうで何よりです」
 肘の次は平手だ。閃く小さな手を今度は左手で受け止めて、彼は目を細める。
「これはいつも思っていたことだけど、浩瀚は一言も二言も多い」
 抗議するようにもがく手をものともせず浩瀚は微苦笑する。
「そうでしょうか?」
「それ今日で二度目だぞ。絶対にそう」
 睨付ける目が恨めしそうだ。目の縁が仄かに赤い。浩瀚は三度目の攻撃を受ける前に彼女の顎に手をやった。空いた手で腰を引き寄せる。
「ちょ、ちょっと何を?!」
 狼狽する陽子に浩瀚はひたと、視線を合わせ
「それでは」
と言葉を切る。一対の翠を覗き込むその目は、悪戯を企てる子どものそれとよく似ていた。
「なるべく沈黙するよう、努めましょう」
 ご協力くださいますね? という言葉は勿論問いではなった。
 互いに黙して瞳を見つめあうこと数秒、何の障害もない恥じらいを理由に瞬いた紅い睫を合図に、男の顔がゆっくりと近づいてくる。
 口付けの直前、陽子は言った。
「こうやって、いつも浩瀚のペースに引き込まれるんだ」
 浩瀚は目を閉じたまま紅唇から紡がれる最後の悔し紛れに、軽く笑って囁いた。
「その対処方法は、また、次の機会に」


This fanfiction is written by YATAZU in 2003.

[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.


 16歳の女王様と、それをを補佐する有能ブレイン。モロわたし好みな世界ですv
「どんどん問題事をおこしてやって下さ〜い!」と言いたくなってしまいますよね。←わたしだけ?
それも閣下の楽しみの一つではないかと思っています。にしても、随分役得ですねぇ、閣下・・・(羨ましい)
 やたず様の作品の魅力は清廉で脆弱ではない品の良さ、とでも言えましょうか。それでいてユーモアもる。一言で現すならば「癒し系」という言葉をお贈りしたい。優しさが欲しい時にはやたず様のサイト音のはじまり 思いの言の葉で癒されて下さい。(メニューに近道リンクがありますよ♪)


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