亡蘇心觚(ぼうそしんこ)



「お邪魔致します」
 衝立の陰から声をかけて陽子が堂室に入ると、一人榻に座って地図を見ていた麗人は顔を上げて柔らかく微笑んだ。
「他の方々は?」
「麒麟たちは皆蓬莱へ行っている。景麒は政務でこちらには来ておらぬがね。猿王は自室だろう」
 氾王の言葉だけで、泰麒の捜索は何の進展もないことを理解した陽子はわずかに肩を落とした。そんな陽子に氾王は流れるような仕草で椅子を勧める。
「景王は政務は一段落かぇ」
「はい。何か私がお役に立てることはありませんでしょうか」
 生真面目な陽子の問いに氾王はゆったりと微笑んで見せた。
「そんなに焦っても仕方がないよ。あちらのことは麒麟に任せるしかないのだから」
「はい‥‥」
 頷いたものの、陽子は落ち着かない様子で孤琴斎の方を窺っている。氾王は小さく溜め息を吐いて、立ち上がった。
「ちょっとそのまま待っておいで」
 優雅な動作で堂室を出て行った氾王は待つほどもなく戻ってきて、手に持った小箱を卓に置いた。艶やかな黒塗りの箱に掛けられた緋色の組み紐が目に鮮やかだ。しかし氾王は敢えて箱のことは話題にせずに陽子に尋ねた。
「景王は喉が渇いていのではないかぇ」
「いえ‥‥」
 突然の質問の意図を量りかね、陽子は言葉を濁して氾王の顔を見つめた。
「そのように緊張せずとも、取って喰いはしないよ」
 楽しそうに笑い、氾王は堂室の隅の卓子に近寄って自ら二杯の茶を淹れた。
「あ、す、すみません」
 出された茶杯に恐縮する陽子の前で、氾王はゆっくりと香りを楽しみながら茶杯を口に運んだ。
「そのように結果ばかり急いで追い求めると疲れるであろ。まずはゆっくりと茶を楽しまれよ」
「は、はい」
 言われるままに陽子は手の中にすっぽりと収まるような小さく品の良い茶杯に手を伸ばした。立ち上る暖かい香気に自然と頬が緩む。目を瞑って茶を口に含むと、流れ込んだ熱い液体がまろやかな味で口腔を満たした。
「美味しい‥‥」
 力を抜いてにっこりと微笑んだ陽子に氾王は優しく笑った。
「景王は素直だね。よいことだ」
 茶杯を置こうとした陽子に氾王は尚も言う。
「ほら、もっとゆっくり楽しみなさい。この茶は今が一番美味しいのだから。冷めたら不味くなってしまうよ」
 言って自らも茶を楽しむ氾王に、陽子も素直に再び茶杯を口に運んだ。
 じっくりと時間をかけて陽子が茶を飲み終えると、再び氾王はにこりと笑って問い掛けた。
「落ち着いたかぇ」
「はい。ありがとうございました」
 先ほどよりもずっと落ち着いた様子で陽子は答えた。
「全力で頑張ることばかりがよいのではないよ。時にはゆっくりと力を抜くことも必要だ」
「はい」
 素直に頷く陽子の前で、氾王は先ほどの箱の組み紐を解いた。
「これは範の宝重でね、亡蘇心觚というのだよ。気晴らしに見てごらん」
 取り出されたのは柔らかな布に包まれた小ぶりな杯だった。氾王の白い手が布を広げると華奢な玻璃の酒杯が繊細な姿を顕わにした。蓮の花が浮き彫りになった表面は白く擦られ、上に行くにつれごく淡い紅色に染まっている。その細工だけでもかなりの価値があるだろうことは、陽子の目にも容易く見て取れた。
「ほら、綺麗だろう」
「ええ」
「けれど、この宝重の価値はこの細工にあるのではないよ」
 陽子の目の前にことりと杯を置き、氾王は妖しく微笑んだ。
「酒を満たして飲めば忘れたいことを忘れ、水を満たして飲めば思い出したいことを思い出す、それがこの杯だ」
「忘れたいことを忘れ、思い出したいことを思い出す‥‥」
 呟くように繰り返し、陽子は杯を見つめた。
 部屋の隅の小卓から玻璃の小瓶と水差しを取り、氾王は杯の隣に置いた。
「景王にも忘れたいことがあろう。遠慮せずに使うがよい」
 優雅な仕草で小瓶の蓋を取り、氾王は杯に酒を注いだ。
「忘れたいこと‥‥」
 陽子は呟くと、杯の揺れる水面を睨んだ。水面が静まってから、陽子はゆっくりと目を閉じ、そしてほんの少し苦しげな表情を浮かべた後、目を開けて氾王を真っ直ぐに見た。
「折角ですが、このお酒はいただかないことにします」
「どうしてだね」
 面白そうに氾王が訊く。
「辛くて嫌な思い出も、忘れてしまいたい失敗も、それが全部あって私ですから。未熟な私は嫌な記憶こそ持っていなくてはならないと思うんです。そうでなければまた同じ失敗をしてしまうでしょうから」
 言葉を選びながらもきっぱりと答えた陽子に氾王は満面の笑みを浮かべた。
「合格だね。景王はよい王朝を築かれるだろう」
「‥‥」
 不思議そうに見返した陽子の前で氾王は宝重の酒を空になっていた茶杯に移した。軽く水で漱いで卓に戻す。
「失礼ながら試させてもらったよ。辛い記憶を忘れたいからと宝重に縋るような王なら先行きは長くない。うん、慶はよい王を得たね」
 氾王の微笑みに陽子はほうっと力を抜いた。
「人が悪いとは思われませんか‥‥」
 陽子は小さな声でそれでも抗議するように口を尖らせた。
「すまなかったね。けれどはるばるやってきた甲斐があったというものだ。これからも慶とは誼を結べそうだから」
 悪びれずに微笑む氾王に陽子は小さく肩を竦めた。
「もしも‥‥、もしも私がその杯で水を飲みたいと言っていたら、氾王はなんと仰ったのでしょうか」
「おや、景王は思い出したいことがおありかぇ」
「それはもうたくさん」
 陽子は明るく笑って答えた。
「覚えたはずの文字の意味を思い出せないこととか、一度聞いたはずの官吏の職名を忘れてしまったこととか、数え切れないほどありますから。その杯に水を満たして執務の際に持ち歩ければと思います」
 溜め息混じりに笑いながらの陽子の告白に氾王はくすくすと笑った。
「そうさね、それがこの宝重の一番有効な使い方かもしれないね」
 言いながら氾王は再び杯を手に取り、窓からの光を透かして見た。
「大丈夫、すぐにそなたには必要なくなる。時間はたっぷりあるのだから、焦ることはない」
 氾王の整った横顔に陽子が問う。
「氾王はその杯でお酒を飲まれたことがおありですか」
「ああ、あるよ。何度もね」
 あっさりと答えた氾王にさらに陽子は問い掛けた。
「どんな時に」
「ごくたまに、気が向いたときにね。まずこの杯で酒を飲む。そして次に水を飲むのだよ、今忘れたことを思い出したい、と念じながら」
「今忘れたことを‥‥」
 驚いたように陽子は繰り返した。
「そう、自分が今何を忘れたいと思っていたのか確認するためにね」
「氾王は強い方でいらっしゃる」
 目を瞠って陽子は溜め息のように漏らした。
 氾王はうっすらと微笑んで杯を卓に置き、陽子を見つめた。
「弱いから、確認するのかもしれないよ」
 そして陽子の答えを待たずに立ち上がり、華やかな笑みを浮かべた。
「麒麟たちはまだ帰ってこないようだね。もう一杯茶を楽しむとしようか」
 程なく氾王の手元から、爽やかな茶の香りが立ち上った。



This fanfiction is written by POPE in 2004.

[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.


ぽぺ様のサイト真昼の夢の10万ヒット企画で自分の考え出した宝重にぽぺ様がお話しを付けて下さるとあったので、がっぷりと飛びついて応募しました。
そう、この変な宝重はわたしの考えたものです。用途と形状は直ぐに浮かんだのですが、名称に苦しみました。美しい名が思い浮かばず、こうなったら変わったモノで勝負だ!(勝敗はどこに?)と「亡蘇心觚」と名付けました。由来は「忘れる」という漢字が心を亡くすと書くことから、思い出すことは心が蘇ることになるだろうと、心を亡くし蘇らせる觚(さかずき)にしました。音感がかなり変ですよね(笑)。
どこの国の宝重にするかは、ぽぺ様がお決めになるのですが、氾陽同盟管理人’sの一人であるわたしの為に範にして頂いた上に、氾陽テイストにしてくれました。さらに年忘れにかけてお忙しい大晦日にアップと二重三重に美味しいお話しなのです。ぽぺ様ありがとうございました〜〜〜!
もしもこんな宝重があったら、陽子さんの様な使い方にも魅力を感じるのですが、やはりわたしは酒を満たして飲みたいです。記憶にとどめておいても腹が立つだけ、ということはやはり綺麗さっぱり忘れたいですよね。
この企画に応募したのは勿論ワタクシだけではございません。ぽぺ様のサイトでは他の宝重も楽しめるのです。


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