花を泳ぐ魚



 無彩である、かのように思った。


 その想念に囚われて男は急速に現実を見失いつつある。夢現と定まらぬ世界で突如、ひらりと逃げ行く魚影を見た思いがして彼は、ただ逃すまいと少女の影を抱き寄せる――その腕の思わぬ力強さに陽子の口から微かな嬌声が漏れた。

 彼らの姿は桜の下にあった。


 盲目になった、ようでもある。
 もちろん全ては比喩であって、本当に見えなくなったわけではない。だが男にとっては、視覚で捕らえる物体の境界は非常に曖昧に感じられた。唯一はっきりとしているのは彼女がひどくいとおしいという想い。それでもって尚隆は陽子を見つめる。目ではなく、掌や、指や、唇で。
 容を確かめるために輪郭をなぞると、掻き抱いた細腰は逃れようとする意志を抱いて躰に絡まった。そしていつもどおりのしなやかさと、確固とした存在を男に熱で伝える。触れることだけが彼に現実を喚起させていく。
 しかし、それでも彼の眼前からは一切の色彩が意味を失っていた。それは陽子の鮮やかすぎる緋色の髪も、彼をせつなげに見上げた深い翠の瞳も例外ではなく、この瞬間、男の目にそれらは意味のあるものとして映りはしなかった。ただその存在だけが鮮烈に際立つ。
 彼は長く、息を吐いた。

 そして、なにゆえに、と問いかける。

 なにゆえに無彩であると感じたのだろう。
 もしやそれらは彼の頭上、広く蒼穹を覆った雲の悪戯なのか。それとも彼の背後、白く咲き誇った桜の花の見せる幻なのか。花曇りの中に浮かぶ世界の全ては朦朧と漂い、境界はその濃淡によってのみ表現されている。――それ故、であろうか。


 桜がさわさわと枝を揺らした。静かに時間は早足で駆け抜けていく。
 陽子は、男に抱き寄せられてからずっと視線を反らしていた。互いの距離が近すぎて、このまま気持ちの全てを見透かされてしまうのではないかと思ったのだ。尚隆は逆に少女を見つめている。どれだけ近づこうとも胸中の声を聞くことは出来ぬと知っているからだ。
 その、別個の存在であるがゆえの間隙。どれだけ寄り添おうと躰という境界は越えることができぬ、その哀愁。息苦しさにも似た心苦しさを感じて尚隆は更に陽子に触れた。
「・・・そんな顔を」
 するな。
 触れることで言葉は必要性を失い、伝えるべき言葉は愚かしさに途切れてただ男は自分の指で少女の頬を撫でる。所詮、言葉も飾りに過ぎぬ。色彩という飾りも剥がれ落ちた彼らの間で、言葉は単なる音の羅列にすぎなかった。
「陽子」
 しかし名前だけは特別な甘美さを含んでいた。名前とは、名付けられた者だけが所有できる唯一の言葉だ。いとしき名を呼ぶその囁きの、なんと甘いことか。
 尚隆の指が動くたびに陽子は、くすぐったいのか、それともせつなさが募るのか顔を反らして逃れようとする。が、すぐに顎を長い指にすくわれてまた彼を見上げるようになる。
 視線が合うと瞼の帷が半ばまで落ちる。その奥で水の中を翠玉は僅かに揺れた。
「陽子」
 またも、呼ぶと。陽子は息苦しそうに眉を寄せたまま、唇を開けて息を求めた。もしくは何かを言いかけたのやも知れぬ。結局呼吸になったその喘ぎは、まるで水からあやまって打ち上げられた美しい魚がするもののように不器用で、胸部が膨らむと喉が震えた。
 ――水を乞うゆえ瞳に涙が湧くのか。
 そう考えてもおかしく思われないほど、陽子は何かを切に求める。その必死さを尚隆は感じた。しかしお互いが必死であればあるだけ思考がもつれ、身動きが取れずに立ちすくむ。
 すると。
 ぽつり、と。
「――桜、が」
 不意に、陽子が落とした言葉は、その唇に置かれた尚隆の指に触れた。尚隆はその僅かな唇の動きにじっと視線を這わす。陽子の声は息を吐くほどのかそけさで続いた。
「薄紅色をしています、ね・・・」
 以前貴方と見たときには白く見えたのに。
「なんだか、不思議」
「ああ・・・」
 尚隆は視線を上げた。陽子に相槌を返して、微苦笑を浮かべる。あんなにせつなげな表情をしていても頭の片隅では桜の事など考えていたのかと思うとその方が不思議だ。
 ・・・女はわからぬ。
 苦笑を浮かべた事で彼は少しだけ冷静になった。


 そして今も白い雲の上、天上の世界に無限に広がる蒼穹を背に、快活と咲く桜の白さを思い出す。それは万人が愛す季節の景色だ。無論、尚隆もそれを好んでいる。――ならばさしずめ晴天の桜は、景女王の凛々しき姿か。
 されば今の姿は曇りの薄紅。
 尚隆の腕が容を探るのを急にやめたので、訝しく思ったのか陽子は視線を上げた。すぐに尚隆は気がついて、口付けを首筋に落とした。
 ・・・決して陽子を苦しめたいと思うわけではないが、こういう時に見せるせつなげな表情はいつもより尚隆のいとおしさを掻き立てる。
 なるほど曇りとはそういうものか、と男は一人得心した。

 煙る世界に立つ美しさ。

「知らぬは本人ばかりなり、か」
「――え?」
「ああ、もう一人いたな」

 ちらりと男は虚空を見やって、不敵に笑うと陽子が戸惑うのに構わず奪うほど激しく唇を合わせた。


 白の帳は地上を隠す。
 今なれば。

 いかなる愚行も天には、見えぬ。

This fanfiction is written by KIYOTAKE in 2003.

[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.


きよた家様のASMILE1周年記念配布作品をはじめまして、で頂いてきました。
きよた家様の陽子さんの仕草の一つ一つにはドキドキさせられます。
そして、尚隆の腕を、視線をするとかわす仕草は悩殺ものです。男をじらしたり、かわす女は魅力的ですよ〜!
言葉の少ない、花曇りの幻想的な世界がまた美しい・・・(溜息モノ=3)
この詩的な、絵的な作品に陶然となり、ただでさえ少ないボキャブラリーが麻痺しています ^^;)


Albatross−珠玉作品蒐集部屋−
背景素材:InvisicleGreen
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送