逍遥の太子 周遊の王



泣き声がした。
赤ん坊の声によく似た声が。
それを聞き付けた者たちが息をのみ、身を竦ませた。おそるおそる周りを見渡しながらじわじわと街道の中心へと身を退く。
「ばらばらになるな。子どもの手を取れ。荷物などに構わず走れ」
その声はよく響いた。
利広は腰に帯びた剣をすらりと抜いた。
これがひとりであれば趨虞で一気に駆けたのだが、いまはひとりではない。国を脱出しようとしている人々といるのだ。
泣き声が近づく。いっせいに人々が走り出す。
――これは‥‥まずいな。
全員を助けたいと思うが、恐らく向かってくる妖魔はひとりでかたずけられる数ではない。
旅団のしんがりにいた利広は趨虞の手綱を離した。白の勝った趨虞は低く唸りながら周りを威嚇する。
枯れた林の影に黒い大きな獣を見つけ気を引き締めた。影は四つ。
これで全部か。そう思ったとき前方で悲鳴が聞こえた。
「くそっ」
ひとりでは無理だ。
思わず振り返った利広の横を疾風が抜ける。赤い色だけが見えた。
獣の吠える声がしたあとどさりと倒れる音が聞こえた。
風の駆け抜けた先で利広が見たのは妖魔を相手に剣を抜いて戦う少年の姿だった。かたわらにはすでに一頭が骸と化している。
「前は大丈夫だ! 連れがいる!」
よく透る声に押されて利広も剣を一閃させた。



巧国の高岫<こっきょう>を無事に越えて、慶の舎館に落ち着いた利広は隣の部屋を訪れた。
「よかったら夕食を一緒にさせてもらってもいいかな?」
赤い髪の少女――少年ではなかった――はこころよく頷いてくれた。
そうして利広は彼女の連れと四人で夕食を食べている。
舎館の飯堂はひとが混み合っていたがなんとか席をとれた。
程度で言えば中の下の舎館にしてはここは小奇麗で厩もしっかりしているし、飯もうまい。
慶に新王が践祚してからさほど年は経っていないが、ずいぶんと復興してきているようだ。
巧を脱けてきた荒民たちとはこの街に入ってから別れた。あの妖魔の襲撃で命を落とした者はひとりもいなかった。
「利広は奏から来たんだ」
そう、と頷いて利広は目の前の少女を眺めた。
あざやかな緋色の髪に碧の瞳。妖魔と戦っているときは少年だと思っていたがこうして見ると中性的ではあるが、きれいな顔だちをしている。
あの戦いの中で彼女の身のこなしはただ者ではなかった。そして彼女のもつ剣も。
いまも身につけている彼女の剣は見た目も立派なら、その切れ味も恐ろしいほど冴えていた。屈強な妖魔のからだをやすやすと貫き、刃こぼれするどころか一振りすれば血脂が落ちる。なんとも見事な剣だ。
「そちらは巧へ行こうとしてたのかい?」
巧を出発した旅団に彼らの姿はなかった。
「ああ、まあな。巧へ行くといっても高岫あたりをみるだけだったんだが」
朗らかに言う男は虎嘯と名乗った。そして陽子の右隣の男――桓堆が口を開く。
「巧の様子はどうだ?」
「酷いね。毎日どこかで妖魔に出くわす。早く新王が起たないと危ないな」
「そうか‥‥」
陽子が沈痛な面持ちでうつむく。
「巧に知り合いでもいるのかい」
「いや、いまはいない。でも巧には何度か行ったことがあるから、気になるんだ」
へえ、と頷いて利広は両隣の男たちに目を走らす。
虎嘯はともかく桓堆はいかにも軍人のにおいがする。そしてこの目の前の三人の中で采配をとっているのはどう見ても陽子だ。
彼らの陽子に向ける視線は気安い友人や年下の女性に向けるものではない。同志や同僚、若しくは‥‥雇主。
「巧のひとびとは大丈夫だろうか‥‥」
他国のまったく見知らぬ人々をこの少女は心から心配している。民なら自分の安全を喜び、役人なら荒民、浮民に頭痛めるところだ。
「なあに、すぐに塙麟さまが見つけてくださるさ。それに民は思いのほか強いもんだ。なあ、桓堆」
ああ、と桓堆は答えてくつくつと笑う。それにつられて陽子も笑みを浮かべた。
「そうだった」
なにやら三人には共通する何かがあるらしい。じっと見ていると陽子が「すまない。昔の話なんだ」と断わりをいれる。
「いや、構わないよ。それより慶はどうだい? 新王はずいぶんと人気のようだけど」
「人気? 王が?」
目を丸くする陽子に利広が驚く。
「あれ、知らない? 陽子たちは慶のひとじゃないのかい」
「いいや慶だよ。ただ陽子はそういう噂に疎いんだ」
虎嘯が肩を揺らして笑う。その姿は年の割に少年のように邪気が無い。
桓堆もまた楽しげにしている。
「良い王さまだよ。半獣や海客にもお優しいし、民の声もよくお聞きだ。まあ破天荒なところもおありのようだがな」
「ああ、初勅は驚いたねぇ。他の国でも噂だったよ」
言うと虎嘯と桓堆がまた肩を揺らして陽子はぎこちなく笑った。
「利広はこれから慶を回るのか」
「そう。慶の新王がどんなものかいろいろと知りたくてね。それに尭天で大きな祭があるだろう? その見物をしにね」
「景王ね‥‥」
陽子は複雑な顔をしている。
さきから陽子の表情を見ているとこの三人の関係が気になってしょうがない。だがそれを聞くことも躊躇われる何かがあった。たぶんそれがこの三人の身分を示しているのだと思う。
結局それには触れず、そのあとは他愛のない話と夕餉を楽しんだ。


出発の朝わざわざ見送りに来てくれた陽子たちに利広は「またどこかで」と別れた。
彼らが国の中枢に近いところにいるのは察せられたので、運がよければまた会うこともあるだろう。いや、会うだろうという不確かなものではなく、会うという確信めいたものを感じた。
もしかしたらそれはただの利広の希望かもしれない。だが、陽子の澄んだ碧に浮かぶ光を見たら次の機会もそう遠くないうちに訪れそうだと思ったのだ。
三人はもうしばらくあの街に逗留すると言った。たぶん今日も高岫の方に行くのだろう。
巧に近い慶の高岫は荒民たちを迎える体制が僅かだが整っている。
泰麒のことといい景王は苦労性なところがあるようだ、と利広は思う。
まだ慶は赤子だ。他国に割く力は無く構っている時間も無い。
だがひとびとの顔を見る限り、それに対しての不満はないようだ。決して裕福ではない民たちもがすすんで力を貸している、そんな様子が見られる。
不羈の民。
――初勅か。
どうやら今度の景王は破格のようだ。
国に行き渡る慶国の新たな風を受けて、利広はまっすぐ瑛州を目指した。


This fanfiction is written by Izumi Hachiya [SEVENTHBEE] in 2004.

[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.


和泉様のサイトSEVENTH BEEの1万ヒット記念企画のフリー配布作品です。
3本あった中からこれを選んだのは、陽子主上が虎嘯や桓堆とつるんでいるから♪
わたしにとって、この組み合わせは慶国ベスト3ですv(浩瀚はその次かな・・・ ^^;)
主役は利広なのですが、わたしにはこの3人がツボでした。しかも、嬉しいアクションシーンから始まっているぅvvV
和泉様、素敵な作品をありがとうございます。そして、1万ヒット超えおめでとうございます!
もうじき、2万ヒットになる頃にアップで申し訳なく・・・

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