緊急に決裁を仰ぐ必要があって女王の正寝を訪れたこの国の冢宰を出迎えたのは、女官たちの困惑した顔だった。
「主上はいずこに?」

当然すぎるその問いにも、女官たちは困ったように首を振るだけだった。
「先ほどまではいらしたのですが・・・、どこぞへと行かれたようで、私どもにもわからないのです。」
「そうか、困ったな・・・。」
心当たりを探してみます、という女官たちと別れて、浩瀚も一通り陽子を探そうともと来た道を戻っていった。
しばし思案気に顔を伏せていた浩瀚だったが、ふと、先ほど会った女官たちの言葉を振り返ってみた。

わたくしたちに行く先をおっしゃらないことなんて、まずないのに・・・・

陽子が女官たちに黙って行く場所があるとすれば、それが知れると彼女たちに咎められる場所だろう。

「もしや。」

浩瀚には、一ケ所心当たりがあった。



そこは、雲海の中でも波の穏やかな場所で。
時折吹いてくる風が気持ちがいいと、しばしば陽子が言っていた場所だった。
「やはりこちらでしたか。」
官服の裾を膝上までまくり、この国の王である少女は足を海水に浸していた。
人の気配とその声に、一瞬はっとして足を水から上げて裾を下ろした。
だが、
「なんだ、浩瀚か。」

姿を現した人物を見定めると、ほっとしたように肩の力を緩める。 浩瀚は、苦笑を漏らさざるを得ない。
「その出で立ちを、私よりも女官たちに見られることを羞じられるのですか。」
「羞じるんじゃなくて、鬱陶しいんだ。」
陽子は、口を尖らせた。

「海の水は、心地よいですか。」
浩瀚は陽子に、そう聞いた。
浩瀚の知らない間にも、陽子は何度もここを訪れているらしい。
国も、王宮内も、登極直後に比べればかなり安定していたから、女王の身の安全を案ずるほどではない。
だが、あまり人目につかない場所に頻繁に一人で訪れて欲しくないというのが、浩瀚の本音である。
「気休めだ。広い海を見ていると心の中が広がるような気がするし、透んだ水を眺めていると心の中まで綺麗になったような、そんな気持ちの良い錯覚を起こすだけ。それでも、小さなことにくよくよするような時には、有効な薬なんだ。」
「なるほど。」
是とも非とも言わず、浩瀚は神妙に頷いた。

やがて、浩瀚はまるで秘め事を囁くように小さく提案を口にした。
「では、海へまいりましょうか。」
「え・・・?」
「面白い館があるのです。昔の州侯が酔狂で作った代物ですが。」
陽子の瞳が、きらりと輝いた。
「二人で行くの?」
「ええ。」
浩瀚は、涼やかな笑みのまま答える。
「二人っきりで?」
「ええ。」



「なに、あれ?」
陽子は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
それは、陽子にしてみれば奇怪とも言えるような眺めだったのだ。
白い砂浜から遠浅の海が続き、そこに、小さな家が水上に浮かぶように建っていた。
「むかしここの州侯だった人物が、別邸としてあれを作ったとか。」
「別邸・・・なのか、あれが。」
「海をことのほか好んだ男だったそうで、政務に飽くと、ここに逃避をしたとか。」
「ふうん。」
たしかに、穏やかな波の音が静かに聞こえるだけの場所だった。
諸事に忙殺される毎日からの逃げ場には、格好だ。
その州侯が没落しても、この隠れ家が取り壊されることはなかった。
ただ、持ち主が二転三転し、いまは趣向の変わった舎館ということになっている。
家の入り口までは、小舟を操る。
中に入ると、聞こえて来るのは波と風の音だけだった。

「わっ。」

だが、室内に思いがけないものを見つけ、陽子が歓声を上げる。
板張りの茶色い床の一部が、青く輝いている。
近寄ってよくよく見れば、床の一部が硝子張りになっていて、そこから水中が見えるようになっていたのだった。
時折、色とりどりの魚が姿を現しては去ってゆく。

「水の上に建つ館は、他にも例がないことはありませんが、床を硝子にして海水や生き物を眺められるようにしてあるのは、ここくらいではないでしょうか。」
「面白いな。」
はしゃいだように頬を上気させて、陽子はいきなりそこに腹ばいになり、肱をついて硝子床の下を眺めた。
王である少女の、行儀が良いとは言えぬ振舞いに浩瀚は小さく笑うと、自分も同じ格好になって陽子の隣に肱をついた。
「浩瀚でもそんな行儀の悪い格好するんだな。」
揶揄うような陽子の言葉に、さらりと応ずる。
「これではどこにいても、主上を足下に見下ろすことになってしまいますので。」
「はは。」

それからしばらく、二人で並んで魚を見ていた。
聞こえるのは穏やかな波の音と風の音だけで、時間が止まったかのような錯覚を覚える。
「ただ魚が泳いでいるだけなのに、飽きないな。」
「金波宮には、お帰りになりたくなくなったのではありませんか。」
それは、ちょっと揶揄おうとしたに過ぎなかった。
それが冗談で済むくらいの余裕が陽子にはあることを、浩瀚は知っている。

陽子は静かに、浩瀚を見た。
その一対の碧玉が迫ると同時に、浩瀚は柔らかな手で肩を押された。
難なく男を仰向けに転がすと、陽子はその胸に頬を寄せた。
唇から漏れたのは、まるで独り言のような呟き。
「あのな、もし浩瀚が猾吏で・・・。」
髪を撫でる手に誘われるように目を閉じた陽子の声は、夢を見ているかのようだった。
「この館が貢ぎ物だというなら・・・。」
あの靖共が予王に、箱庭の幸福を贈ったように。
未熟な王を、政事(まつりごと)から遠ざけるための罠が、この安らぎだったとしたならば。
「わたしは、堕ちてしまうだろうな・・・。」


廂の隙間から、海風が薫った。



「おや、私の企みに気付いてしまわれましたか。」
咄嗟に茶化してはみたものの。
この体勢では、別のものに彼女は気付いてしまったかもしれぬ。
すなわち。
わずかに跳ねた、その鼓動に。
悪事が露見しそうになった罪人が顕す動揺のような、その音に。


・・・汝(なれ)は、魔か。


かつて浩瀚は潔廉の士と呼ばれた。
学友たちに「魔の入る隙など皆無だろう。」と言われてもいた。
だが、ある師はこう言った。

魔は、甘美な衣を纏ってそなたの耳に背徳を囁くであろう。
気をつけよ、と。

いま、自分に安心しきって身を預けている少女もまた、浩瀚を潔廉と信じているであろう。
気付くと、少女は静かに寝息をたてていた。
長い睫毛が、至上のきらめきを誇る一対の碧玉を守り覆っていた。
その瞼にそっと口付けて、浩瀚は不敵に笑った。

どこからか手を伸ばす、魔に属するであろう何かに挑むように、笑った。

「わが膝は、ただ一つの光にしたがうためにある。」
「闇に屈する膝など、わたしは持たぬ。」

浩瀚は、愛しい体温を腕の中に抱えたまま身を起こした。
榻に寝かすために立ち上がると、足下に再び、海が見えた。

海は、ただ青く澄んでいた。

This fanfiction is written by H.v.H in 2003.

[無断転載・複製禁止] Reprint without permission and reproduction prohibition.


タヒチ、ボラボラ島のル・メリディアン・ボラボラが風変わりな水上館のモデルとのこと。ガラス床もある水上コテージで、ハネムーンスポットなのだそうです。
陽子〜ぉ、そこで眠らないでくれ〜!と叫んだら、メリディアンのベットには風情がないとのこと、ちょっと残念?
最近のはー様の閣下は、ゆらぎ(何だそれは?)があって眼が離せないのです。
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